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2、キリスト者として




 話が終わると驚いたことに、昼、話をした牧師が前に出てきて大きな声で歌を歌いだしたのでした。それも大きな体で。白髪で、ボリュウムのある声でした。それまで独唱を聞いた事もなかった私は、感激しながら聞いていました。


 歌が終わるとその牧師は「 今、イエス様を信じる人は手を挙げなさい 」厳しい顔をして迫ってくるのです。


 私は、まずいと思ったので、そのままじっとしているだけでした。その時、何人かの人が手を上げたのです。その人達は前に招かれ小さな椅子に座り、牧師から個人的に話をしてもらっていました。


 そんなことが一ヶ月ぐらい続きました。


・・・・・


 次第に友達も出来、集会後の帰り道、喫茶店に寄りお互いたばこを吹かしながら「 今日の話はよかったな 」とか「 あの人手を挙げたけれど本当に信じるのかな 」と、話あいました。


 そのころ私も、少しずつキリスト教って悪くないなと思うようになっていたのです。こうして友達も出来るし、教会の人は見ず知らずの私にとても親切にしてくれるので、教会に対する思いが好意的になってきました。


 ある夜の集会で招きのとき、ついに私も応じ、手を挙げたのです。何かに促されるような気持ちでした。


 このままではいけないもっとまじめにならなければと言うささやきのようなものを感じました。こんな自分でも神様を信じることが出来るなら信じてみたい。思わず前に進み出ました。


 説教を聞いていると、そこで語られた罪は、私自身であったことが強く示されたのです。小さな椅子に座っていると牧師は「 良く決心をしましたね 」「 今までの罪をみんな私に話してご覧なさい、楽になりますよ 」と勧めてくれたので、20才の私はそれまでの思い出す罪をありのまま話しました。


 「 神様、ごめんなさい親の言うことを聞かないで自分勝手をしていました。」「 神様、小さいとき人のものを取ってしまいました 」と、次々に以前のことが示されるのです。


 同時に何故か、涙と鼻水が次々と流れ、顔はくちゃくちゃになってしまいました。その後牧師は、私に聖書の言葉を示してくれました。


『 もし、私たちが自分の罪を告白するならは、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめてくださる。 』
 (ヨハネによる手紙一章九節)


 「 さあ、これを信じるならあなたはイエス様によって罪から救われるのですよ、信じますか 」

 「 ハイ信じます 」

 「 では一緒に祈りましょう 」と、祈ってくれたのです。


 こうして、ひとりの若者が神の子供とされました。その時から不思議に心が晴れ晴れとなり、何か今までモヤモヤとしていた心に明かりが差し込んできた体験をしたのです。


・・・・・


 それから、教会に行くのが楽しみになり、毎週日曜日は、礼拝と夜の伝道会に、Yさんと共に通うようになりました。


 夜は集会30分前に集まり、みんなでお祈りをし、小さなチラシを持って駅前通りに出て行き、歩いている人の脇にそって共に歩きながら教会に誘うことを始めたのです。


 「 今晩、教会でこんな集会があります。来てみませんか 」熱心にしました。ほとんどの人はいやな顔をして断ります。でもあきらめません。次々に誘うのです。電車が着くたびに人は駅から出てきます。めぼしいと思う人の所にすーと近づきます。


 中には「 行ってみようかな 」と来てくれる人もいるのです。こんな時「 ああ、神様感謝します。 」と、うれしさがいっぱいです。


 もう逃さないように注意をはらい教会まで案内します。教会で待っている人は顔いっぱいに喜びを表します。そのようにして歓迎し中に案内するのです。


 「 平山兄弟、よくやったね祈っているよ、頑張って 」こう言ってもらうことに喜びを感じました。まだ自分では何も話せないし、導くことも出来ないので、信仰の先輩がその人の脇につきます。


 集会中、後ろからじーっとその人の動きを見守ります。そして心の中で「 神様どうぞこの人が信じる人になりますように 」と祈るのです。


 神様に誉めていただこうと言うよりも、牧師に認めてもらおうと言う気持が強かったと思います。そして伝道集会が始まるのです。面白いことに、毎週新しい人々が連れてこられたのでした。


 司会者が「 救いの証のある人はいませんか 」と問うと、我々は先を争うようにして「 ハイ。ハイ 」と勢いよく手を挙げるのでした。それにつられて手を挙げる人もいたようです。そして、一人5分以内の証が始まるのです。


 「 私はイエス様を信じました。生活がこのように変わりました 」 私も一生懸命話をしました。そこに今まで感じたことのないような生き甲斐を感じるようになりました。教会に行くことが一番の楽しみになっていたのです。






 そうこうしている内に、日が過ぎていきました。冬が終わり、春になったら田舎へ帰って農作業を始めねばなりません。そんな時、牧師先生より洗礼のことが話し出されました。


 当然私も洗礼を考えていました。ここの教会は、夏、洗礼式をしないで、冬の寒いときに洗礼式をしていたのです。寒いとき冷たい水に身を浸けた方が、信仰もシャキッとするからと牧師は話していました。


 私は最も寒い2月に受洗することになり、準備が始められました。牧師は私に、思い出す罪を便せんに書いてもって来なさいと話してくれたので、アパートで一晩かけて書き始めました。


 小さい子供の頃から親に心配かけたことなど、次々に書きはじめました。同時になんと私は多くの罪を犯してきたのかと、再び涙が流れてきたのでした。ひとつひとつおゆるし下さいと祈りながら書きました。


 中学生から酒たばこを始めたこと、お店に行ってお金を払わないで物を持ってきたこと、高校生の時 学校に嘘を言って停学処分になってこと等、次々に示されるのです。どんどん書いていきました。そうすると、ゆるされた喜びがわき上がり暖かく身体を包んで来ました。


 その夜とても嬉しくなりました。イエス様は、私の汚い罪を全部背負って十字架に付かれたんだ、イエス様ありがとうございます。私はあなたを信じます。


 厚くなった便せんを教会に持って行き、牧師に見せました。牧師は「 よく書いた。自分の罪を神様に告白すると全部赦される。あなたはもう赦されたのです。これは私が預かっておきましょう 」と、受け取ってくれました。


 そして洗礼式の日が決まったのです。


・・・・・


 洗礼式当日の一週間前、東京は大雪でした。洗礼場所は、神奈川県丹沢山中を流れている道志川でした。


 水はとても冷たいと言われたので、1ヵ月前ころから洗礼式の準備をしました。銭湯に行ったとき水をかぶったのです。冷たかったです。隣のおじさんに怒られました。「 お兄さん、何でこんな冷たい水をかぶるの、こっちまで寒くなってしまう 」


 洗礼日は、昭和43年2月23日と決まりました。朝早く、弁当を用意して、受洗兄弟4人、それに、総理、主任牧師、教会員と、一緒に道志川に向かって出発しました。電車を乗り継ぎ、バスに揺られ、道志村に到着しました。


 そこから渓谷を下り、洗礼にふさわしい場所を探します。途中総理は歩きながら村の人たちに「 今から洗礼式をするから見に来なさい 」と、熱心に声をかけるのです。


 私たちが洗礼する所に降りてきて上を見ると、吊り橋の上から何人かの村人たちが不思議そうに見下ろしているのです。



  ( 牧師は、一番左です。 )


 河原には、真っ白な雪が積もっていて、目に痛いぐらい輝いていました。水温はマイナス1度くらいだったでしょうか。まず河原に枯れ木を集め、火をおこします。そして用意は整いました。


 私たち若い男子4名の受洗者は白いガウンを着、流れの速い道志川に静かに一歩ずつ足を水の中に入れます。


 水は冷たく、ぐっと堪えます。川底は丸みを帯びた石ころです。転ばないように流されないように川の中央に足を進めます。川の中央には牧師が足を広げて待っています。


 そののばした牧師先生の腕をつかみます。「 この手を離さないでね、しっかりとつかまっているんですよ 」と言いながら、静かにそして力強く私たちを一人ずつを流れの速い川の中に沈め、「 我、父と、子と、聖霊のみ名によりて、バプテスマをさずく 」と、洗礼式を行ってくれたのです。


 水の中に入ったとき、冷たさに思わずうなってしまいました。冷たいと言うより、痛い感じでした。沈めてもらい水から起きあがって、そのままじーっと上を見ていました。今に聖霊が私の上に来るのかと信じながら。


 岸にいた他の人たちや牧師先生は「 平山さん、寒いから早く上がりなさい 」と大きな声をかけてくれました。「 えっ、私は聖霊がハトのように来るのを待っているんだよ。まだ来ていない。それでも上がってしまうの・・ 」。


 でも次の人が待っています。多少の不満を抱えながら水から上がりたき火にあたりました。体が温まったところで着替えです。私たちは全員男でしたから着替えは簡単に済みました。こうして私のキリスト者の生活が始まったのです。






 洗礼を受けてから20才の青年の生活が一変したのです。


 礼拝、日曜夜の伝道会、そして水曜日の祈祷会と休まずに出席しました。また献金する喜びも学びました。


 時間を、お金を神様のために使うことが喜びとなりました。それまでは酒、たばこ、遊びに給料のほとんどを使っていました。


 祈祷会は祈りの集会です。その日の仕事を終え、夕食を急いで済ませ、喜々として教会に行きます。祈りも充実していました。


 牧師の説教が終わると、祈りの課題が挙げられ祈りが始まります。初めはひとりずつ祈りをしますが、段々と熱が入り、しばらくするとみんなで一斉に祈り始めるのです。もう誰が何を祈っているのか分かりません。


 みんなで大きな声を出して祈る祈りは、一つの大きな叫びとなり天に昇って行くようでした。汗をかき、手をたたき、一心に自分の祈りを神に捧げるのです。時間が来ると牧師は小さな鐘を鳴らし、祈りの時間が終わったことを私たちに告げるのです。この様な祈りは毎週のことでした。


 アパートに帰る道すがら、心は満足し、喜びと感謝に満たされていました。(私は後日東京聖書学院に入学して学生祈祷会に毎週出ていましたが、ひとりが祈り終えると、次の人が祈り始めるまでに間があるのでとても気になりました。)






 2月に洗礼を受け、3月になりました。田舎では春の農作業が始まる時期になりました。私も東京での仕事を辞め、田舎に帰るようにしました。


 両国駅から総武線、成田線と乗り継ぎ、佐原駅に着きます。そこからバスに乗って潮来まで帰って来るのです。


 東京からの帰り道、私の心の中は次のような思いが心いっぱい広がっていました。出稼ぎに行っても、お金を持って帰れないが、こんなに素晴らしいおみやげを頂いた。なんと感謝なことだろうかと。


 私の気持ちはイエス様に救われた喜びで満たされていました。


 電車の窓から、外の流れる景色を見ながら覚えたばかりの聖歌「 のぞみは、ただ主の、血と義にあるのみ、いかでか他のもの、たよりとなすべき、イエスこそ岩なれ、堅固なる岩なれ、ほかは砂地なり 」(聖歌二三六番)を、何回も心の中で、繰り返しながら歌っていました。


 自分がクリスチャンになったと話すと親はなんと言うかな、どんな反応をするかなと、電車の中で考えていると少しの心配が胸の内にありました。


 久しぶりの潮来は空気がとてもきれいに感じました。目に映る物すべてが輝いているように見えるのです。


 家では田植えの準備が始まっていました。両親は久ぶりに長男の顔を見て安心して喜んでくれました。


 早速、田圃に出て行き、耕耘機を動かし仕事を始めました。田圃の中で土に触れながら、そうだ自分はこれから農業をしながら、この田舎でキリストの証を立てるのだ、と決心したのです。







田舎に帰った私の変化に、両親はとても驚いたようです。それまで、暇があると外に出かけ遊んでいた者が、すっかり遊びに行かなくなり、時間があれば部屋に閉じこもり、聖書を読んだり祈りをしてばかりいる。


 私が遊ぶことを嫌がっていた母親は「 少しは遊んできたら 」心配そうな顔をして勧めるのです。


 田植えが終わってからも東京の華やかなネオンに心惹かれることなく、地元で仕事を見つけ、そこで働くようになりました。今までは、半年で仕事を変えていた者が、献身するまでの二年間同じ仕事が続いたのです。


 親の驚きようは大きいなものがありました。給料を手にすれば、家に生活費として入れる。小遣いもあげる。外に遊びに行かなくなったので、お金がいつまでも手元に残っているのです。近所の友だちは、つきあいが悪くなったなと思っていました。しかし私は、何よりも教会に献金し、教会に行く事を喜びとし、そのことを第一にしていました。


・・・・・


 丁度、このころから日本の農業に、急激な機械化の変化が起こって来ました。水郷地帯は稲作が主な産業です。機械が取り入れられた農作業は春の田植えと秋の稲刈り位しかなく、その他は時間が空いてしまうようになってきました。


 それまでは稲刈りが終わると「 稲わら 」を大事にとって置き、稲わらで「 むしろ 」を毎日のように織っていました。これは物を入れるとき袋にして使うのでした。米を入れる俵も稲わらで作っていました。しかし、紙の発達と共に紙袋が登場し、むしろの需要は段々と無くなってしまったのです。


 農作業は、鍬と万能で一つずつ田を起こし耕していたのが、耕運機が導入されたり、稲を刈る稲刈り機なども登場し、農家の仕事はそれまでとは全く違う姿になったのです。我が家の養豚も、周囲の環境を考えて中止しなければならなくなってしまいました。 農業は日曜日にするもの、平日は会社で働く、となってきたのです。


・・・・・


 しかし私にとって日曜日は、農業をすることでなく、教会に行って礼拝する日でした。私の親は、私が会社の休みに合わせて稲刈りを計画していましたから「 今日は日曜日だから稲刈りはしない 」と言っていたら農業は出来なくなってしまうと、きつい言葉をかけられました。


 聖書に、『 あなたの両親を敬いなさい 』と、あります。私の信仰は、今まで苦労をかけてきた両親に対して、親孝行をする思いがありました。


 日曜日の朝は、早く起きて田に行きます。しかし心は田んぼにあらず、今教会で礼拝が始まっているだろうな、今日の賛美歌は何を歌っているのかな、先生のメッセージは何かな等々。稲刈りをしていても本当に心は落ち着きませんでした。夜は脱穀です。遅くまで働いている両親を後にして教会に行くことは出来ません。


 しかし、段々と考えるようになり、日曜日には誰よりも朝早く起き、仕事に出かけました。バイクで田に行き、聖書、聖歌をバイクの荷台に積んで教会に行く用意しておきます。十時の休み時間になると、お茶を飲まないでバイクにまたがり、教会にはせ参じました。礼拝が終わるや、バイクに乗りすぐに農作業に戻ったのでした。そんな私を教会の先生は驚きの目で見ていました。


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 当時の教会堂は、アメリカ軍の兵舎をもらい受け、それを解体して潮来に移し、建て直した小さな建物でした。10人も入れば満席になりました。牧師館などというものはなく、礼拝する隣に六畳の部屋が一つあるだけ。そこが牧師先生の生活の場でした。


 新卒で東京聖書学院から派遣された先生は、この様な環境でどんなにか苦労されたことか。後で聞いた話ですが、夜になると毎日泣いていたと云います。当時、若かった私には、牧師先生のそんな苦労が分かりませんでした。でも、教会に行くのはとっても楽しかったのです。


 若い人たちも少しつつ集まるようになりました。青年会を結成し、特伝をしたり、夏、聖書学院から修養生を派遣してもらったりして伝道に励みました。自分の働いている会社の前に立ち、修養生と一緒にチラシを配るのです。


 一見熱心なように見えますが、同じ職場の人に会わないよう気持ちがそわそわします。「 あれ、平山こんな所で何をしているのか 」と言われたときは恥ずかしさで顔が赤くなってしまいました。でもこれを通して自分がクリスチャンであることを会社の人に知ってもらいよかったと思います。


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 また、ある時は教会の青年を誘い、聖書学院で行われた新年聖会に参加し、とても恵まれました。地元で開かれる夏の水郷聖会も恵みの時でした。


 信仰を持って2年目、聖書学院で行われた新年聖会に行きました。私は前方の席に陣取りました。その集会の時、「 これから聖書学院に入る人の証があります 」と司会者の言葉がありました。


 すると、私の目の前に座っていた私と同じ歳ぐらいの女の子が立ち上がり、前に進み話を始めたのです。この人は次のように話し始めました。「 私は国立大学の二年生です。教員になるために学んでいますが、今年度で大学を辞めて聖書学院に入学します 」と。


 その人が話を終えると再び私の前に座りました。その肩幅の広い姿を後ろから見て、大学を辞めて聖書学院に入るなんて なんとすごい人なんだろうと、とっても大きい人に見えました。その信仰に私は圧倒されてしまいました。私の知らない信仰者がいるんだと新しい発見をした気持ちでもありました。


 田舎にばかりいないでやはり年に一回ぐらいはこのような大きい聖会に来てみるもんだとこの聖会で信仰を奮いたたされたようになりました。







新年聖会が終わり、田舎に戻ってきた私の心の中に、新年聖会で聞いた「 献身 」の二文字が離れなくなってしまいました。一体これは何だろうか。祈りの時、常に「 献身 」の言葉を感じました。仕事をしていても家にいても思いが迫ってくるのです。


 教会に行き、先生にこのことを話すと「 それは主が、平山兄弟を牧師に召しておられるんでしょう。よく聖書を読んで、祈ってご覧なさい 」とアドバイスをくれました。


 「 エッ、私が牧師に 」・・考えられないことでした。私は小さいときから、平山家を継ぐ跡取り息子として育てられてきました。それに、学問も学歴もない。勉強も好きでない。とてもじゃないが、私が牧師なんて。考えることの出来ないことでした。


 それに、二月になり、教会堂が全焼してしまったのです。その日の午前、サイレンが鳴り、消防自動車がけたたましく走っていくのです。


 どこが火事かなと、人ごとのように考えていたところ「 おい平山、おまえの行っている教会が火事らしいぞ、行かないでいいのか 」同僚に知らされ、昼休み急いでバイクで行ってみました。すでに教会堂は無く、黒く焼けこげた柱などが横たわっているだけでした。そこから煙がすーと立ち上っていたのです。


 牧師先生は色々な人とあわただしく何かを話しています。そこに立った私の足はガタガタ震え、そこに立っているのがやっとの事でした。小さいながらもここに集まり、礼拝をしみんなで賛美し祈りあった教会堂。それが燃えてなくなってしまうとは。


 これから私は否、私たちはどうすればいいのか。どこで礼拝をするのか。これで伝道は出来るのか。それにしても少人数の私たちが新しく教会堂を建てることは出来るのか。色々な思いが一気に胸にこみ上げてきました。もう泣くに泣けない心境です。


 隣の家からのもらい火でした。大きなショックでした。神の教会が火事になるなんて信じられない。どうして神様は教会を火事から守って下さらなかったのか。神の家である教会が燃えてしまっては証にならないのではないか。


 礼拝に集う人が十人前後の小さな教会でした。この先どこで教会活動をするのか、教会はどうなるのか等、心配が次々に出てきました。幸い集会は信徒の方の、物置二階が提供されましたので、ひとまずそこで礼拝を続けることになりました。


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 このようにして私の献身の話は全くゼロになってしまいました。教会が大変なときに献身して教会を離れるなんて考えられないことでした。毎日の仕事に励み、これから教会のために一生懸命に奉仕をするんだと決心しました。


 でも、私の心には、主の御言葉が日々に段々強く迫ってくるのです。祈っても心は落ち着きません。教会の先生は「 潮来は心配しなくてもいいから主の導きに従いなさい 」と勧めてくださるのです。


 祈りました。夜中、自宅の物置にある藁の中に潜り込んで祈りました。寒い中、すぐ近くの川に行き、大きな声で叫びました。「 私は農家の長男で家を離れられない。主よ、助けてください 」それでも御言葉は、私から離れません。


 自分の立場と献身を考えると胸が痛くなる。弟でもいるなら話は変わってくるでしょうが兄弟で男は自分一人。長男が献身したらこの家はどうなるのだろうか。それよりも両親はなんと言うだろうか。次々に心配が頭を行き巡るのです。


 親を悲しませることはクリスチャンとして考えられないことです。やっぱりやめようか。このまま農家の家を継いで生きた方がなんかいいような気がする。親を悲しませてまで献身することはない。でも平安は来ないのです。

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