3、東京聖書学院へ
ついにその時がやって来ました。思いきって母に「 聖書学院に行く 」と話したのです。母は最初、何の事か理解できないようでしたので父に伝えました。父は、私を呼んで「 聖書学院に行くとはどう云うことだ 」と聞くので恐る恐る説明しました。
「家を出る。何を寝ぼけたことを言っているのだ。おまえは長男で跡取りなんだ。牧師になることは絶対に赦さない! 」。
父は烈火のごとく怒りました。自分の息子がようやく真面目になり、人並みに働き始め、これからと言うときにキリスト教に入ったり、家を出て牧師になるなんて言い出したりして、気が狂ったのではないかと思ったようです。それから家の中は一変してしまいました。
会話がなくなってしまったのです。嫁ぎ先から姉夫婦が来て説得します。それでも私の気持ちが変わらないと知るなり、父親は親戚の人たちに集まってもらい、親族会議をしました。そこでも説得されました。しかし、私の気持ちは動くことがありません。
親戚の人たちにまで集まってもらい私を説得しようとする父の思いが痛いように分かるのです。またそれだけつらいのです。
母は毎日のように泣きながら「 教会に行くのは良いけれど、家を出るのだけはやめてくれないか 」と、悲しそうに訴え続けてきます。両親に従いなさいとの教えを頂いた者としてはこれほど悲しく、つらいことはありませんでした。
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そんな中でも、会社に退職届を出したり、学院入学のために試験を受けたりと準備は進めていました。
そして、入学試験です。聖書学院で一緒に試験を受けた人たちは、見たところ頭のいい人ばかりの様で、私など足元にも及ばない感じがし自信を失いました。
新年聖会で証をした大学生もいました。出されたテストは、国語、作文、聖書知識、英語です。私にはどれも難しいものでした。テストなどは高校卒業以来したことはありません。高校生の時でさえまじめに勉強した記憶がないのです。
テスト用紙を見ながら、もし落ちたらどうしよう。会社も辞め、親にも親戚にも友達にも牧師になる学校に行くと言った手前、今更受からなかったからだめでしたと言えないし、特に英語は全く分からず、白紙で提出し、すぐに教室から出てしまいました。出た所に学院の先生が立っていて「 どうだった 」と聞くものですから「 全く出来ませんでした 」と自信なく答えました。
わたしは試験が失敗し、入学許可が出ないとばかり思って、しょんぼりしていました。すると先生は「 出来ないことは悪い事ではない。ここで勉強していこう 」と、励ましてくれたのです。その時、「 あ、あ、勉強は分からない事を学んでいくものなんだな 」と、教えられ、気持ちが楽になりました。
試験を終えて家に帰ってきても、誰も口をきいてくれません。みんな黙ったままです。雰囲気はとても暗く、そこにいるのが苦しくてたまりません。母は私の顔を見るたびに泣いているのです。このことは何より私を苦しめました。正直、早くここから逃れたい気持ちになりました。
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テストの成績が悪くても、東京聖書学院は私に入学許可を与えてくれました。その連絡を受け取ったとき、心の中には、成績が悪いから入学できません・・とあればそれを理由に学院に行かないでこのまま家にいることが出来るかな、でも入学許可が来たのだからもう後に引けない、これで決まったと思いました。
それから自分の身の回りの整理を始めました。献身をすることはこんなに悲しいものなのか、両親の悲しんでいる顔を見るにつけ、自分は正しいことをしているのかなと考えさせられました。
もう親との会話はなくなってしまいました。父も説得するのをあきらめたようです。最後の夜、食事をしているとき父は「 行くのなら一生懸命にやれ 」と、声を絞るように小さく言ってくれたのです。その言葉を聞いたとき、思わず涙が溢れてきました。
小さいときから私が大きくなったら一緒に農業をしようと、楽しみに育ててくれた両親の期待に応えられない自分は親不孝者ではないか・・。そう思うと次々に泣けてくるのです。母もそんな姿を見て泣きながらご飯を食べていました。
翌日の朝、両親は、まるで何もなかったかのように無口です。「 行って来るよ 」と言っても返事も無く、無関心な態度です。いつもと同じように何もなかったように一日の仕事を始めているのです。そんな両親の姿を見ながら、後ろ髪を引かれる思いでバス停に向かって歩き始めました。
親の思いを考えると、私の両方の目からは涙が流れて止まりませんでした。本当に苦しい中での献身への出発でした。果たして自分はここに再び帰って来ることが出来るのだろうか。私をここまで育ててくれた故郷の光景をしっかりと目に焼き付けておこう。
心の中では「 潮来の町よ、さようなら、お父さんお母さん、さようなら。息子を許して下さい 」と、大きな声で叫んでいました。
学院には、聖書・聖歌と、スポルジョンの『山頂を目指して』、それに布団一式を持って行きました。
先輩達の部屋には、沢山、難しそうな本が並んでいるのを見て驚いてしまいました。今までマンガしか見たことのない私にとって大きなカルチャーショックでした。
さらに驚いたことは食事でした。食堂でみんな一緒になり食べていると、私の側にいた舎監の松木先生が「 平山君、食事は音を立てないで頂くものなんだ。スープは残り少なくなると、お皿を少し傾けてこの様にスプーンに取って静かに飲むんだよ 」と、親切に教えてくれるのです。
今までそんなことを一度も言われたことのない私にとって「 聖書学院というところは食事のことまで言われなければならないの 」と、驚いてしまいました。
それまで、家では毎日三食、米飯を食べていましたが、ここでは朝食がほとんどパン食でした。皿の上には野菜(サラダ)が添えてありましたが、私には食べられる野菜ではありませんでした。
野菜と云えば、食べる直前に畑から取ってきて洗って、すぐに食べていました。一日経ったものは小さく刻んで、鶏の餌にしていたのです。それと同じような、しなびた野菜が毎日出てくるのです。「 これって鶏が食べる野菜じゃないの! 」。こんなものを食べるのも牧師になるための修行と思い頑張って食べるようにしました。
しかし、どうしても新鮮な野菜の味が忘れないのです。どこか畑を作る場所はないかと校内を見渡したら、校庭一面に芝が張ってあるのです。これは無駄だなと思い、日当たりの良さそうな所を選んで一生懸命芝をはがしました。
芝の下からは、黒々としたとても良い土が現れたのです。それもそうです。聖書学院が引っ越しする前、ここは畑だったのです。早速、キュウリの種をまいたり、トウモロコシ、トマト、ナスなどを植えました。土地が良いものですから、野菜はすくすく成長し、すぐ収穫できるようになりました。
野菜作りは私にとって難しいことではないのです。楽しいことでもあり、学院に入って初めての楽しみを見つけたような気がしました。どれも美味しそうに大きくなりました。
聖書学院まで来て農作業が出来るなんて思いもしませんでした。それだけ嬉しくなり、毎朝まずここに来て成長を確かめるようになったのです。悲壮感を持って来た私にとって作物を育てることは安らぎでした。
トウモロコシは実が黄色く色づいてきた。トマトは日ごとに赤くなり。キュウリもどんどん大きくなった。そして、もうすぐ収穫・・というとき、宣教師の先生がカンカンに憤り、赤い顔をして「芝をはがして畑にしたのは誰ですか」と寮の中に入ってこられたのです。
私は、なんで宣教師の先生が興奮しているのか分からず、「私がしました」と返事しました。すると宣教師の先生は、「すぐに全部抜きなさい。そして元通りに直しなさい」と、言うのです。
「エッ、もうすぐ食べられるのに」と、思いましたが、仕方ないので抜いてしまいました。後で分かったことですが、日本人の考えと、アメリカ人の芝に対する考えには大きな違いがあったのです。
後日、アメリカに行ったとき、各家庭には、きれいな芝生が庭一面に生えているのを見ました。庭の一角を畑にし野菜を作っている家庭はどにもありませんでした。
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また、私は元々音痴で、聖歌を歌うのに、音程がいい加減でした。調子はずれなのです。(・・潮来は銚子に近い)
それまで教会で歌っても、誰にも何も言われませんでしたので、気持ちよく大きな声で歌っていました。しかし、学院で歌うと色々な人から注意を受け、讃美するのが楽しくなくなってきたのです。
悶々としていたとき、寮のお風呂に一人で入っていました。とても広い風呂だったので気持がよくなり、思いっきり橋幸夫の「潮来傘(いたこがさ)」を歌い始めたのです。
誰もいない広い風呂場でしたので気持が乗り、一番から三番まで大きな声で歌っていました。私の声はきれいに風呂場で反響するのです。「俺って本当はきれいな声で歌えるんでないかな」と、一人悦に入っていました。
もっと歌ってみようかなと思ったその時です。舎監の尾花晃先生が「誰ですか、流行歌を歌っているのは。ここは聖書学院です、聖歌を歌ってください」と風呂場の中をのぞきながら私に言うのです。「あっしまった。ここは銭湯でなかったんだ」歌を歌いながら一瞬、街に中にあった銭湯の気分になってしまったのです。
ここは銭湯でないぞ、聖書学院という聖なる場なんだぞと大いに反省しました。それ以来、聖書学院で流行歌を歌うことはなくなりました。でもいつまでたっても聖歌が演歌調になってしまうのです。。
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言葉遣いは茨城弁丸出しのきつい言葉。どうしても最後に「んだっぺ」がついてしまうのです。また勉強は嫌いな方だったので、授業になかなかついていけない。途中居眠りをしてしまう・・。
そんな私を見て修養生仲間は「平山は、今学期で学院を辞めるよ」と、話されていたのです。私は辞めても行くところがないので必死でした。あれほど家族を悲しませてここに来たのに、今更学院の生活が大変だったので帰ってきましたなど言えるはずがありません。父と母の涙を思い出す度決意を強くしたのです。
今まで読んだことのない本を一生懸命に読むようになりました。眠くなると夜の暗い礼拝堂に行って大きな声で祈りました。そうすると不思議に眠気が薄れていくのです。再び自分の部屋に行き本を読み始めます。そんな日々を過ごしていく内に段々と学院の生活にも慣れるようになりました。
聖書学院での学びの中で、私が大きく学んだものの中に「伝道実習」がありました。週末や夏の時期に、教会に派遣されて奉仕するのです。教室の学びだけでなく、教会で実際に働いて伝道を肌で体験するようになるのです。
私の場合は、信徒の時、日曜学校の奉仕をしていませんから、これといって決まった奉仕が出来ませんでした。どこに行っても役に立たないから、学院の中にある聖書学院教会で過ごした方が良いのではと、教授会で話されたと後で聞きました。
ここでの奉仕は、主に教室の掃除と玄関でのスリッパ並べでした。一学期間これだけをしました。また、信徒の方が日曜学校をしているのを見て、どのようにするのか学んでいきました。
この当時は一クラスに20人から30人の生徒が来ていたのです。日曜日、それまで来たことのなかったスーツに身を包み、ネクタイを締めて、子どもたちの前に出ます。それまで農家の私にはスーツなど縁がなかったのです。ネクタイの結び方も知りませんでした。成人式に初めてスーツを着た経験があるだけです。
礼拝が終わると同時にきつくてなれないスーツを脱いでしまいました。それを見た学院教会の副牧師の先生が私を呼び止め 「平山君、献身者は一日が奉仕の日なんだよ。スーツは一日着ていなさい」と、注意を与えてくれるのです。この様なことを通して献身者としての思いを持つようになってきました。
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学院教会での三学期最後に、初めて夜の伝道集会の説教を命ぜられました。それまで他の同級生から、日曜礼拝で説教をしたと報告を聞かされていた私は内心うらやましく思っていました。
私はいつになっても教室掃除とスリッパ並べ。このまま一年が終わってしまうのかなと寂しい気持ちになっていたときです。ようやく説教の機会が来たのです。
一生懸命に準備をしましたが、聴衆は、主任牧師夫妻、副牧師、米田豊先生、山崎亭治先生、そして二人の教会員でした。諸先生を前にして足はガクガク、心臓がドキドキ、何を話したか、自分でもさっぱり分かりませんでした。話し終えたときは汗をびっしょり流していました。
説教することはこんなにも大変なのかとつくづく思いました。そして自分は説教が出来るのかなと不安になってしまったのです。聞いておられた先生達も不安だったのではないでしょうか。
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二年生になってからは、一学期から二学期の短い期間ごと、都心にある別々の教会に派遣されました。今までの学院教会は、会堂も敷地も広々としていました。しかし都会の教会は狭い敷地の中に建てられていた教会ですから、慣れるまでが大変でした。
ある教会に行った時、朝から夜の集会まで会堂に居続けていましたので、精神的にとても疲れていました。それを見ていた教会の老婦人が 「疲れたろう。私の家に来て休みなさい」と言って、誘ってくれたのです。私は、これ幸いと、教会の先生に断りもなく、その人の後について行きました。
家に入り、横になったとたん、ぐっすりと寝込んでしまったのです。
起きたときには夜の伝道集会直前でした。あわてて教会に戻ったところ、先生が玄関先に立っていて「平山兄弟、今までどこに行っていましたか!」「教会を離れるときは一言、牧師に断りを入れなさい!」・・厳しく注意されてしまいました。それからはわずかな時間を見つけて会堂のベンチに体を横たえ休息を取るようにしました。
( 聖書学院の運動会の一コマです。宣教師を背負ってリレー。
右には故松木先生、左には故米田先生の姿が写っていますね)
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その年の夏期伝道は、東京下町にある別の教会でした。そこで牧師先生達は狭い環境の中で一生懸命伝道に励んでいました。
この教会には男の子が四人いました。下は生まれて数ヶ月の子、上は小学校四年生。私は会堂の中での生活でした。
夜中に頭の脇でジャーという音がするので目覚めたら、三番目の子が寝ぼけて二階からおしっこをしていたのです。驚きながらすぐにぞうきんを持ってきて拭きました。
次の朝、その子は何もなかったような顔をして「おはよう」と起きてきたので、私は何も言えなくそのままにしていました。でも次の夜からは、二階を見て自分の布団の位置をずらしながら寝るようにしたのです。再び二階から雨が降るようなことはありませんでした。
毎日、午後三時過ぎになると、三人の兄弟を連れ、近くにある信者さんのお風呂を借りて入浴しました。信者さんは、最初のお風呂を牧師先生の家庭に提供するとの信仰に立っていたのです。当時、教会に風呂が無かったのです。牧師先生は三時頃、三人のお子さんを連れてお風呂にはいるわけにはいきませんから、その仕事は私の担当だったのです。
「こんにちは、お風呂を頂きに来ました」。勝手口から挨拶をして入ります。たいていは店の人がいて「 さあ、風呂は沸いているから入りなさい 」と言ってくれます。
夏、三時頃と云えば太陽はまだ頭の上、皆さんは汗を流して一生懸命に仕事をしている頃です。そこの家は大きな商売をしている家で、働いている従業員の人も多くいました。そんな人たちの目を気にしながら、風呂にはいることは相当の気苦労でした。
また、風呂からあがる時は、入るときよりもきれいにしておかないと証にならないと思い、髪の毛一本落ちていないか、真剣な眼差しで風呂の隅々までに注意を払い、汗をびっしょり流しながら教会に帰りました。
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学院の夏期伝道の目的は、学院生活では体験できない牧師家庭の在り方も学ぶねらいがありました。実際このようなことは教会に住んでみないと分からないことです。そのような意味でよい経験をさせてもらったと思っています。
この町は材木関係の会社が沢山並んでいました。運河が何本もあり、そこには沢山のいかだが杭に結ばれて浮かんでいるのです。「あれ、これは見覚えがあるな。それに木の香りも・・」 それもそのはずです。以前、東京に出稼ぎに来ていたときに働いていた所でした。
私たちが港から筏にくんだ木材はこのような運河や、お台場の貯木場に運んだのでした。以前、罪の中にさまよって働いていた場所に伝道者の働きのために再び来るなんて想像も付かないことでした。主のなされることは驚くことが多くあります。
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この教会の次は、拝島の開拓伝道に任命を受けました。一人で教会の責任を任されるようになったのです。ここは修養生が伝道実習で毎週拝島駅を中心にして伝道活動をしていました。そこで日曜日の礼拝をするようになり、私が派遣されたのです。
集会場は駅の近くにあった公民館の一部屋を借りました。しかし、礼拝参加者はなかなか増えません。
冬の寒い時、宣教師のお子さんから頂いたバイクにまたがり、東村山から通いました。拝島に行く途中にはアメリカ軍の広大な横田基地があり、ビルのような大きな飛行機が、羽を休めているのを横目で見ながら通いました。時は丁度、ベトナム戦争の頃でした。大きな空輸機がこの基地から沢山の物質をベトナムに運んでいたのでした。
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次の年の夏期伝道任命も開拓伝道です。場所は埼玉県狭山市でした。他の修養生は沖縄に派遣される者もあり、また他の修養生は北海道、四国へと、みんなそれぞれ遠い教会に派遣されたのです。私には行ったこともない地でしたので、とてもうらやましく思いました。
狭山では、すでに借りてあった一戸建てに住み込むようになり、自炊しながらの伝道でした。朝炊いたご飯を残しておき、昼ご飯の時それを炒めて食べるのです。一人で買い物をし料理して食事を作ることは、私にとって大きな負担でした。
暑いときは動く気がしません。クーラーはありません。日の内は、ただただ涼しいところを探し、じっと昼寝をしているのです。涼しくなった夕方、トラクトを手にして一軒一軒尋ね、郵便受けにトラクトを入れて歩きました。
夏のある夜中に、男子青年が教会の戸を激しくたたくのです。私は寝込んでいたので、何事が起きたかと思い戸を開けると、彼はトラクトを手に持ち、「 これを読んで自分がいかに罪人であるかが分かり、恐ろしくなってしまいました。私はどうすればいいのでしょうか 」 真剣な表情で語るのです。
とりあえず青年を教会の中に招き入れて話を聞きました。そしてカウンセリングをしたのです。彼はその場で救いの恵みに預かりました。本当に感謝でした。。彼はこの年のクリスマスに五人の受洗者の一人として立ったのでした。
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この狭山伝道は、宣教師一家が協力していました。
この時、私は初めて本格的に宣教師と向かい合うことになりました。信徒の頃、内村鑑三の本が好きでよく読んでいました。内村は宣教師のことを良く言いません。私もその影響を受けていました。芝のこともあったりして。
でも、この宣教師ダイヤ先生は、心から日本を愛していました。私もダイヤ先生を好きになり、毎週手を取り合って狭山の町を歩き伝道しました。
ここでは、主に私が礼拝説教を担当しました。いつも集うのはダイヤ先生ご一家です。六畳の部屋に座り、私が手を伸ばせばダイヤ先生に届いてしまう程の狭い集会場でした。
それゆえ一つの悩みが起きました。説教が始まると目の前におられる、ミセス・ダイヤが、すぐに大きく口を開けてあくびを始めるのです。このことはショックでした。
とうとう説教する自信がなくなり、責任牧師であった小林和夫先生に相談に行きました。それに対して先生は、このように説明されたのです。「平山君、アメリカ人は人前でゲップするのを恥とするが、あくびをするのは何でもないんだよ。気にしないで続けなさい」。これを聞いて私は「ああ、アメリカ人は日本人と違うのか」と妙に納得してしまい、それからはあくびを気にしなくなりました。
12月のクリスマス会。私とダイヤ先生は、子供クリスマス会を計画しました。借家では狭いので、銀行二階のホールを借りたのです。私が申し込んでも貸してくれなかった銀行は、アメリカ人がお願いに行くとすんなりと貸してくれたのです。
チラシ配布や、案内発送など、色々な準備をして当日を迎えました。その日の午前、ダイヤ先生は材木店に行って、舞台になるような大きな広い板を、数枚借りてきて銀行二階まで運び込んだのでした。さすがアメリカ人、だてに体が大きいのではないんだと感心しました。
この集会には沢山の子供達が集いました。約二百名、大人も子供も集まりました。そして、洗礼式には五人が洗礼を受けたのです。とっても恵まれて次の任命も引き続き狭山であったらいいなと内心考えていましたが、狭山は12月で終わり、1月からは千葉栄光教会に派遣されました。
今度は、牧師先生のおられる教会でした。その名は松村悦夫先生です。千葉栄光教会に行ったとき、先生が自動車で駅まで迎えてくださいました。
車中、先生は「平山君、あなたは何かビジョンを持っていますか」と聞いてくださるのです。「ハッキリしたものはないですが強いて言えば子供達が好きです」と、答えました。それを聞いた先生は「千葉では、あなたの自由に伝道して良いから頑張りなさい」と話してくださるのです。
右側におられるのが、故松村牧師です。
この当時、東京聖書学院は、インターン制を取っていました。三年間は院で学び、四年目は実際に教会に派遣され、副牧師的な働きに身を置いたのです。この制度はても良いことだと思います。
私は三年生の三学期から千葉に遣わされました。土曜の授業が終わると、すぐ昼ご飯を食べ、急いで千葉に向け出発します。その夜は教会で一泊し、日曜の奉仕が終わると電車に乗って東村山の聖書学院に最終電車で戻ってくるのです。
四年生になってから住まいを千葉教会二階に移して住み込みが始まりました。食事は牧師家庭で皆さんと一緒に頂きました。先生は独立した牧師館を教会脇に持っておられたのです。
最初の食事の時、先生の奥様が「 平山先生、これから一年間、私たちと一緒の生活をしますから平山先生の好きな食べ物を何でも言ってください。楽しく食事をしましょう 」と、勧めてくださいましたので「 私の好きな食べ物は、刺身にニンニクをつけて食べることです 」と遠慮なく話しました。それを聞いていた家族の皆さんは、何か驚いた様子でした。
何故驚いたのか、その時私は気がつきませんでした。
二,三日後の夕食時です。牧師館の食卓に座ってみると、カツオの刺身と生ニンニクをすり下ろしたものがあるのです。私にとっては家にいたとき以来のごちそうでしたので、喜んで箸をつけ食べ始めました。しかし先生家族は誰も食べようとしないのです。みんな、しかめ面をして私を見ているのです。
さすがの私もこの時気がつきました。「アッ、皆さんはニンニクがお嫌いなのだ」。これ以後、松村家にはニンニクは再び登場しませんでした。
でも、私にとって好きな食べ物でしたから、インスタントラーメンを買い、夜中に教会の食堂でニンニクを入れて一人喜んで食べました。でも、ニオイは流れるので秘密には出来ませんでした。
当時この教会には、戦前台湾で素晴らしい働きをした山里先生、聖書学院を卒業された下澤先生ご夫妻がおられ、とても充実していました。私も先生方の力添いを頂き働きました。
そのころ、千葉の海岸近くに団地群が建設され始めていました。そこから教会に来ていた姉妹が「私の団地には若い夫婦がたくさんいて子供達の数が多いのです。何とか子供伝道をしてくださいませんか」と、松村先生に相談に来られたのでした。
すると、一緒に側で聞いていた私に向かって、松村先生は「平山君、君は子供達が好きと言いましたね。どうですか責任を持って幸町団地の子供達に伝道してみませんか」と、話を向けてきました。これを聞いて驚きましたが、主の導きと信じ受け止めました。
それから先生方や教会員に助けていただき、準備を始めました。まず集会場です。これは団地に住んでいる信徒の方が団地の集会場を確保してくださいました。幸いにオルガンは集会場にあり、使うことが出来ました。
そしてこの集会の名前を「 幸町小羊子供会 」と、命名しました。
最初の日、松村先生、妹さん、教会員、そして私と一緒に出かけました。紙芝居を持ち、プレゼントを持ち、布に書いた歌集を持ち、勇んで出かけました。果たして、どの位の子供たちが来てくれるだろうか。もしかしたら誰も来てくれないかもと、不安と期待が交差する待ち時間です。
予定の時間が来ました。子供達は次々に集まってきました。お母さんも一緒に来ます。集会場はたちまちいっぱいになりました。私は嬉しくなり、気持ちよく話を始めました。この集会はとても祝され、その後長く続きました。
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このころの松村悦夫先生は四十代前半で、とても広い視野を持って教会、教団、超教派の働きに邁進しておられました。また、色々な先生方が千葉を訪れたり、多くの集会に先生が出かけられたりしていました。私もこれらの先生方にお会いしたり、超教派の集会に参加させていただき、沢山のことを学ばさせていただきました。
先生は、「 百冊の本を読むより、一人の恵まれた牧師に会うことの方が学ぶことは多い 」とも話されました。また、「 百の議論より、一つの実行が大切 」と、話されていました。
先生のお母様は、寝たきりの生活でしたが、とても明るく、何も分からない私を良く指導してくださいました。そしてよく祈る人でした。
私が何か相談に行くとまず「平山先生、このことについてお祈りをしましたか」と、いつも話されるのです。イギリスから背広の生地を取り寄せていただき、背広を新調してもらったこともありました。
千葉栄光教会は、私に教会の姿がなんであるかを教えてくれた教会でした。そして、結婚式をこの教会で挙げることが出来ました。相手は、かつて新年聖会の時、大学を辞めて献身の証をし、私の目の前に座った人です。私が26才、彼女は24才でした。
学院での恵みの経験は、経済的なことにも及びました。家出同然の姿でいた私には仕送りなどありませんでした。
学院に入学してみると以外にお金がかかるのです。送り出してくれた教会では、毎月五百円のサポートを送ってくれました。後はミッション先の教会から月々のお礼をいただくだけでした。
授業中、先生達は沢山の本を紹介してくれます。「是非読むように。出来ればこれは手元に置いていた方が将来的に役立つよ」等、言われるとどうしても買いたくなってしまいます。また、奉仕先には、ジャンバーで行けません。靴も買わなければなりません。以外とお金が必要となったのです。このことに関して一生懸命祈りました。
「エリヤに食べ物を運んでくれた神よ!どうぞ私にも必要を与えてください」。
するとどうでしょう。一年生の六月のことです。現金封筒が私宛に来たのです。その様なことを今まで見たこともなかった私は、驚いてしまいました。
封筒をいただいて部屋に帰り、封を切り、中身を取り出しました。そこには現金と一緒に便せんに書いた手紙がありました。
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「兄弟が、今経済的に困っているのを知りました。祈っていたら御言葉が示されました」それは『世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。』(ヨハネの手紙第一、三章一七,一八)
ですから、これは神様があなたに送ってくれたものとして受け取ってください」。一瞬、何のことか分からずにいました。でも、それは、まさにイエス様の恵みでした。
手が震えるような気持になり、また何か聖なる大きなものに触れて、恐ろしい感じにもなりました。神は生きておられる。このことは、どんなに大きな信仰の力になったことでしょうか。封筒の裏には一応、住所が書いてありましたが、存在しない住所でした。この贈り物は聖書学院を卒業するまで毎月続きました。
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それから一ヶ月後に、別の人からも同じような贈りものが来たのです。この方は私を導いてくださったYさんです。Yさんは、今退職されていますが、学院以来今日まで、私を助けてくださっておられます。
神様は本当に生きておられる、経済的な面においても祈りに必ず答えてくださるお方であることを知ることが出来ました。それから私の本棚にも本が並ぶようになりました。それ以来、経済的に困った記憶はありません。この様な経験を積みながら聖書学院での学びを終えることが出来、無事卒業式を迎えました。
一年生の時、風呂場で「潮来笠」を歌ったこんな私が、卒業式には卒業生代表として答辞を読んだのです。でも、そこには私の両親も兄弟もいませんでした。
その日の夜、潮来の両親に「お父さん、お母さん。私は無事、今日、東京聖書学院を卒業できました。親孝行をすることが出来なくてごめんなさい。でも牧師として一生懸命やっていきます」と手紙を書きました。