子育て入門「 天使の輝き 」 こひつじ園園長 平山 豊治
1、はじめての経験
2、育 児
3、子育ての基本
1 子どもは親のあり方を見て育つ
2 子育ては芸術
3 スキンシップ
4 子どもの話を聞くように
5 ことばによるスキンシップ
4、受容と共感
1 お父さん、お母さんお互いを受け入れましょう。
2 子どもを受け入れる
5、しつけは難しいですか。
1 何が大事か
2 教えるとは
3 親の教訓
4 時には厳しく
6、時には子どものリズムに合わせてみましょう
1 子どもをだめにする方法
2 時間を取りましょう
3 おじいちゃんおばあちゃんに一言
4 もっとほめましょう
5 子どもの力
6 不自由さの中で
7 朝食の大切さ
8 気軽に教えてもらいましょう
9 ありのままの姿を受け入れましょう
7、目線を子どもに合わせて
1 自我の目覚め
2 喧嘩
3 子ども同士の中で
4 喧嘩といじわる
5 子どもの主体性を重んじよう
結論
私は神学校卒業と同時に結婚しました。そして牧師としてのスタートを新宿の教会で始めました。結婚してまもなく、家内は妊娠しました。
当時、その教会の近くにあった病院から数名の若い看護学生たちが教会の集会に来ていました。その関係もあって家内はその病院(東京医科大学)のお世話になり、そこで初めて男児を出産しました。
病院からの連絡で、わが子に会いに行きました。産室でこの腕に抱いた感覚は忘れません。1974年(昭和49年)2月のことでした。一所懸命にこの子を育てようと決意を堅くしました。
病院から退院した日が東京では珍しい大雪であり、真っ白くなった新宿の街を、田舎から上京して来たわたしの母親とともに、生まれたばかりの赤ん坊を連れて教会に帰ってきたことを今でも鮮明に覚えています。
それから間もなくして、私たちは別の教会に転任になりました。ちょうどその頃から本格的な育児が始まりました。
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ある夜、子供が四ヶ月になった頃です。泣き声がだんだんと激しくなってきました。ミルクをあげたばかりなのにまだ足らなかったのかしらと思い、ミルクを作り口に含ませました。ところが子供は飲もうともせず、さらに大きな声で泣き出すのです。
これまで聞いたことのない泣き声に、私たちはウロウロするばかりでした。背中に何か刺さっているのかと考え、着ているものを脱がせ裸にして探しました。
しかし、そこには何もなかったのです。子供はさらに大きな声で泣き続け、今度は体を動かし手足をバタバタしながらながら泣くのです。
私たちはパニックなってしまいました。もしかしたら大きな病気にかかってしまったのではないかと思い受話器を取り上げ救急車に来てくれるように連絡しました。
子供を抱きあやしながら、今か今かと待っていると、いつの間にか子供はスヤスヤと安らかな寝顔で寝てしまったのです。
後で聞いて分かったことですが、その時の泣き声は、眠くなった時の泣き声であっただけなのです。
それを無理に口を開けようとしたり、裸にしたりしたので、安らかに眠れなくて怒って静かに寝させてくれと泣いたんだと知りました。そんな時は静かに抱いているだけでよいのだということを学びました。(子どもは泣きながら寝るのです。)
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こんな事もありました。
息子は3歳頃まで健やかに育ってくれました。しかし、一つだけ親にとって心配がありました。それは、いつになってもおねしょが直らないことでした。
他のお子さんのことを聞いてみるとだいたい三歳頃にはみんなおねしょはしていないと話しているのです。確かにそのように見えるのです。
うちの子は昼の間、自分で小便をするし失敗もしたことがなくとてもお利口さんなのです。でも夜になると毎晩決まったように失敗してしまうのです。これには大変困りました。
何とか直さなければならない、いや、直してあげればならないと、家内とも相談し、色々なことを試みました。
寝る前には水分を取らせない。寝てから二時間過ぎた頃起こし便所に行かせておしっこをさせる。熟睡している子供は起こされても寝ぼけ眼で何がなんだか分からない状態で無理にトイレに連れて行かれ小便をさせられたのです。
しかし、どれも成功せず、おねしょはそのままでした。
あまりにも変化がないので、今度は強制手段を取りました。おねしょはいけないことを体に覚えさせようとして失敗した朝、起きたときに体罰をしたのです。
その時の私たちは四歳までに何とかしなければならないとの気持ちになっていたのでした。少しあせっていたのでした。しかし、彼はどんなにしかられても「泣いてもうしません。」と言っても次の朝には同じように漏らししてしまうのです。
私たちは疲れてしまって「もうどうでもいいや、なるようになれ。」とさじをなげだしてしまったのです。そうして何もしないでいるうちにいつの間にかおねしょがなおってしまったのです。
今までの努力は何だったのかと、自信を失ってしまいました。そんな中で学んだことがあります。おねしょはひとりでで直ってしまう。病気ではない。何もせずに見守もるだけで良いと言うことです。
確かに毎朝おもらしを片付けるのは大変なことでしたが、そのことも子供を育てる親の大事な仕事であることに気づかなかったのです。
このように、私の最初の経験はお世辞にも立派だったとは言えないものでした。あせっていたのでした。
私たちが初めて自動車を運転するとき、自動車を買って自分のものになったからと言ってすぐに道路を運転をすることは許されていません。
日本では自動車を運転する人にはそれなりの学びと訓練を受けてもらいます。そうしないで運転を始めると多くの人に迷惑をかけてしまうからです。
勉強をし、訓練を受け、試験を受けて運転の資格があると認められた者だけに自動車運転の許可が出るのです。自動車を運転することはそれだけ大変なことなのです。
しかし、自動車を運転するよりも、もっと大切な子供を育児するときに私たちはどれだけの学びと、訓練を受けているでしょうか。ほとんどの人はそのようなことをせずに父親になり、母親になってい育児を始めるのです。
それは、育児のための学びをするにしても、そのような場所が提供されているのでもなく(最近は保育園がそのような役割を負うようにと言われ始めました)、決まったテキストが準備されているわけでもないのです。
そのため私たちは初めての経験を悩みながら暗中模索の中でおそるおそる育児を始めるようになります。
育児の学びにはこれでよいとの基準もありません。保士者としての学びをする学校はありますが、保育士の資格を取ったからと言って育児が上手くできるとも限りません。初めて自分の子を我が手に抱いたときから無我夢中で進めるのが現実です。
その中で私たちは少しつづ教えられたり学んだりするのです。
ですから育児をする者は、自分が子供と共に親として成長していくとの心構えを持つ事が大切です。育児は育自と相通じるところがあるのです。
初めての子を育てた親は、子供から多くのことを学びますから第二子の時は最初より余裕を持って子育てに当たることが出来ます。
初めから百パーセントうまくいく人はいません。悩みながら、失敗しながら自分自身も覚えていくのです。わが子と共に自分も一緒に成長していく気持ちで育児に望むことが大事でしょう。
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育児は奧の深いものです。ここまで学べばもう大丈夫と言う線はありません。
私は毎日子供達を見ながらそこにある可能性の素晴らしさに、目からうろこが落ちる思いの経験をしています。あの素直な目の輝き、大人には無いものです。
その子供の素晴らしさを思うとき、子供は神様からの預かりものと思います。この様な素晴らしいものをお造りされるのは、この世では神様以外におられないと確信しています。人間がどんなに頑張ってもどんなの科学が進んでも人間は人の手によって作ることは出来ないのです。
幼子はどんどん成長します。一年もたてば自分の足で歩くようになります。二年も過ぎると言葉を話すようになります。自分の足で自分の好きなところ、興味のあるところに行きます。楽しく笑い、私たちに天使の笑顔を振りまいてくれるのです。
一人の子供によって家庭は明るくなり、みんなの気持ちが一つになれるのです。不思議な魅力を持っているのが子供です。
確かに夜中に泣いてお腹が空いた、うんちが出たと訴えることは親にとって大きな負担になります。肉体の疲れもあるでしょう。でも満足したあの笑顔を見ると全ての苦労はどこかへ行ってしまうのです。
あの笑顔は疲れを帳消しにしてくれます。私たちに大きな力を与えてくれます。
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私が初めて孫を持った時のことです。嫁いだ娘が、ある時「お父さん、私妊娠したみたい」と話に来たのです。えっと一瞬思いました。
そして娘は鞄の中からなにやら写真のようなものを取り出し見せてくれるのです。先日産婦人科に行ったら「これが赤ちゃんですよ」と教えてくれたというのです。
渡された写真をみてもどれが赤ちゃんかわからずに見ていました。娘が指し示す指先を見ると点のように小さく写っていました。本当に小さなしるしでした。
それから月日が経ち、予定日より少し早く元気な男の子が生まれました。その顔を見ていていつも不思議に思うことがあります。数ヶ月前にはあんなに小さな点でしかなかった命が今、人間としての姿をもって目の前にいるのです。
頭には黒々とした髪の毛が生えていて、目も口も鼻も耳もあるのです。お腹がすけば大きな声でなくし、ミルクを飲めばうんちもするしおしっこも出ます。泣いたときに大きく口を開けますがその中には舌もあるのです。人間として全く完全な姿を持って生まれたのです。
わずか10ヶ月でこんな成長をしたのです。命の力強さがあるのです。受精したときにわずか2個の細胞が誕生し、約6兆という膨大な天文的な数になりその体を作り上げているのです。ですから細胞が毎日分裂し増えていくスピードはとてつもなくすごいのです。
そして細胞が増えていくときには外部からの影響を受けつつ増えていきます。酒、タバコばかりでなく、母胎の持つあり方に大きく左右されます。
胎内の赤ちゃんは誕生前から激しく動き始めます。ある科学者によると母胎が聞いている音、話も一緒になって聞いていると言われています。その声、音がものすごいスピードで増え体を作る作業に大きく働くのです。脳の形も胎内で作られています。
子育ては妊娠したときから始まるのです。
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子供の素晴らしさがわかると、子育てがとても楽しくなります。人間の出来る働きの中で、子供を育てていく働きほど尊いものはありません。
お母さんから生まれたときの最初の泣き声、やがて目が見えるようになり、周囲の動きを目で追うようになったときの目の輝き、自分の足で初めて一歩歩いたときの感激、ことばを発したとき、「ママと言ったよ」「いやパパと言ったんだ」と嬉しくなった親ばかな姿等、これらは子供がいくつになってもついてくる喜びです。
神様がすべてのお父さんお母さんに与えて下さった育児、子育てを誇りにしましょう。そして、この素晴らしさを思いっきり体験しましょう。
私たち、アジア人が生んだ歴史上最高のものは聖書です。聖書はアジアの西部イスラエルの中から生まれ、今は世界中に大きな影響を与えています。これ以上のものは、二千年間いまだ生まれていません。このことはアジア人である我々の誇りとするものです。
聖書には大切なことがたくさん書いてあります。殺人を犯してはいけません。泥棒をしてはいけません。嘘を言ってはいけません等。
しかし、これらのことよりももっと大切なこと人間に一番大切な教えとして「あなたの父と母を敬え。」と書いてあります。さらにこのことをしない者は呪われてもいいと書いてあります。
時代が進み、新約の時代になるとこのようになっています。「あなたの父と母を敬え。これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。(聖書)
これは数千年前の教えですが、今でも真理だと思います。人間は社会生活を営んで生きていきます。ですから、対人関係がとても大切です。どの様に相手と生きていくか、このことは多くの人が色々な本を書いたり、学校でも重要なこととして教えているはずです。
しかし人間関係の基本はまず家庭で学ぶものであり体験するものです。親子関係おいて、子供は親を尊敬することこれが第1です。しかしそれは強制されて出来るものではありません。本能的に子供が尊敬の念を向けるのは自分を生み育ててくれた親に対してなのです。
子供が誕生したときから子育ては始まります。それをするのは誰でもなく親です。
母親は自分の乳房を通して自分の体内から子供にミルクを与えます。子供は親の命を頂きながら大きくなるのです。親からもらったものが肉となり血となっていくのです。これは強い親子の絆になります。
親は自分のものを与えた子供に対して大きな慈しみを感じます。また我が子を誇りにさえ思います。
このことをあるところで話しました。そうしたらこのような反応がありました。「我々夫婦は子供に尊敬されるものなど何もないよ」 。確かに子供から尊敬を受ける親はとても素晴らしい親だと思います。有名人の話を聞いたりするとそのご両親のすばらしさに敬服します。
何か人様より立派なことをしている親だけが尊敬されるのか。平凡な親は尊敬に値しないのか。そうではありません。聖書の言う親には「立派な親であれ」と言う形容詞がついていないのです。
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最近の若い人は、結婚式をキリスト教式でしたいと希望する人たちが多くなってきました。ホテルでは結婚式をするためのチャペルが作られています。私にもあるホテルから結婚式の司式をしてくれませんかとお誘いがありました。
キリスト教の式では夫婦の誓いに、聖書の言葉が読まれます。
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように自分の夫に従いなさい。」 「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなた方も自分の妻を愛しなさい。」
キリスト教の結婚式に出席された方はこの言葉をお聞きしたと思います。 このあと聖書はもう少し夫婦の教えを書いているのですがここでは省略します。さらにその先を読んでいくと先程の両親を敬えの教えに続くのです。
最近は結婚観も複雑になっているようです。でも憎しみながら結婚する人はいないはずです。少なくともこの人が好きだから、自分の愛する人はこの人だからの思いを持って結婚します。
そして子供が与えられます。その子供は両親の何を見て両親を尊敬するのでしょうか。それは自分のお父さん、お母さんの強い絆とそこにある愛情です。それ以外は何もないのです。
子供は両親のあり方を通して人間関係を学んでいくのです。学歴も何か社会に役立つような立派な行いも必要ないのです。 これが子育ての基本です。
(1) 子育ての基本
日本には昔から子供を育てるための素晴らしい教えがあります。「子は親の背を見て育つ」もその一つです。
これらは、学者が色々な本を読んで研究した結果でなく、日本人が長い年月を通じて得た生の教訓です。これらの言葉は今でもそのまま適応出来るものであります。私たちの先輩が残してくれ財産でもあります。
しかし、今はこれらの言葉がだんだんとすたれてきているように思えます。それよりも、欧米から入ってきた心理学などが幅を利かせています。特に最近の本屋さんにはそのたぐいの本がたくさん並んでいます。
それらのことを参考にすることも必要でしょうが、私たちはもっと日本に合った教訓が与えられています。その方が日本人にはぴったりときます。
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保育園でお母さん方を見ていると、知識がどの様にしたらよいのか迷せていることがあります。
「だれだれちゃんは四歳になってひらがなを読めるようになったのにうちの子はまだ、文字に興味をしめさない」「あの子は立って歩いているのにうちの子ときたらまだ立つことが出来ない」「うちの子は保育園に入ってもう一年になるのにまだ先生にあいさつも満足に出来ない」
その他色々な悩み事がお母さん方にはあります。そこで、つい自分の育児はこれで大丈夫なんだろうかと一抹の不安が起こってきます。
そのことが大きくなってきますとだんだんと自信も失われるようになり、果たして自分は満足に子供を育てているのだろうかと心配になってきてしまいます。
そこで子供の心配をする前に、私たち夫婦はどうであるかを見てみましょう。
何年も一緒に生活しているのだから今更あいさつを交わすことなど必要ないと思われているご夫妻が意外と多いのです。人様にあいさつをするよう子供に教える前にお父さんとお母さんが朝起きた時に「おはようございます。」、出かける前に「行って来ます。」と元気にあいさつを交わすのなら、子供はあいさつをすることがどんなことかをおのずと学んできます。
お父さんお母さんがお互い挨拶をしないで子供だけにしなさいよと教えても効果はないような気がします。当然、私たちは人間ですからお互い文句のひとつも言いたくなるでしょう。お互いに対する不平不満は貯めておくとストレスのもとになります。健康に良くありません。
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そこで私は思います。子供に教える前にお父さんお母さんが自分たちの姿を一度点検することをお勧めします。子供の前でどの様な姿を取ったらよいのか。
感情的になり喧嘩が始まるなと気がついたら一時停戦して、子供が寝た後に続けましょう。喧嘩は子供が寝た後にした方がいいですね。
(昔の人は喧嘩するときに「外に出ろ」と言って外で喧嘩をしたそうです。そうすると外に出るまでに冷静になって喧嘩は起こらないで済むそうです)
子供の前で言ってはいけないことがあります。それは、人の批判です。私たちは人の悪口を言うと、ある程度すっきりします。ですから悪口を言うように誘惑を受けます。
お父さんお母さんが他人の悪口を言うと特に子供は耳を澄まして聞きます。その時受ける影響は子供の心に残ってしまい後になって子供の人生に大きな汚点を積むことになります。
(2) 子育ては芸術
私には結婚をした人たちにいつも贈る言葉があります。「結婚生活は芸術作品を作ることと同じ事です。一つ一つ努力して素晴らしい作品を作って下さい。」
素晴らしい作品を作るには努力が必要です。子育てにも努力が必要なのです。それは、とても素晴らしい仕事であり、やり甲斐のあるものです。
私たちにはとっても素晴らしい素材が与えられているのです。大きな可能性を秘めています。それを育てるのは、お父さんであり、お母さんなのです。汗を流すのを惜しんではいけません。
お父さん、お母さんを大事にしていますか。お母さん、お父さんを愛していますか。その姿を子供は見ているのです。そのことを通じて子供は最も大切な、基本的なことを学びます。
子供はそのような両親の姿を見て育っていくのです。
(3) スキンシップ
私の好きなテーマパークは東京デズニィーランドです。何回行っても飽きがきません。大人でも子供でもだれが行っても楽しめるところです。
保育園でも遠足でいきます。こどもたちも喜びます。お母さんがたも喜びます。また日曜日や祭日の日に親子そろって行かれる方もいます。親子の絆を深める意味にもなるのでしょう。
しかし、いくら好きだからと言っても毎日行けるわけではありません。子供が喜ぶからと言っていつも行くわけにもいきません。 そんなことをしていたら疲れもたまり、いくら楽しいところでも飽きてしまいます。
食事にたとえるならそのようなところは、外食をすることになると思います。いくら、おいしいからといって毎日外食を食べていてはお金がもちません。健康にも良くありません。
健康を作るのは、毎日家で食べている食事です。これは派手ではありませんが私たちの健康を作っていく上で大切なものとなります。
スキンシップも同じ事です。毎日毎日の触れあいが大切になるのです。
少しずつ本を読んであげること。少しのきっかけを作って言葉をかけてあげること(大きくなると言葉をかけられるのが面倒になってきます)。これらのことは小さい時にしかできないものであり、親としての特権でもあります。
(4) 子どもの話を聞くように
子供は本能的に外での出来事を家に帰ったら親に話したくなるものです。この本能を大切にしたいものです。そのことによって親子の話し合いが確立されていくのです。「家庭で話す子に非行なし」はこのことを言っているのです。
子供とお母さんが接触するときは、だいたいお母さんが忙しい夕方になることが多いものです。そんな忙しいときに話しかけられるとついイライラになってきます。「あとで、あとで」と言ってしまいやすいものです。
確かにお母さんは忙しいのですが、それでも話したくなるのが子供です。ここで相手にされなかったら子供はそのうちに親に話すことをしなくなってしまいます。気がつき親子の話し合いを持とうと思ってもすでに遅いのです。
どんなに忙しくても1、2分の時間は取れると思います。それでも話が終わらなければ一言「今お母さんは忙しいから少し待っていてね。お仕事がかたづいたらまたお話ししようね。」と話してあげるとたいていの子は了解します。
基本的には、あなたの話は聞いてあげますよ。との姿勢をとることが大事なことです。
小さな子供は色々なことを沢山話します。聞いてみると話の筋が通っていないことが多くあります。大人の考えから判断するとおやっと思うこともあるでしょう。でも大人の考えはあまり入れないで聞いてあげましょう。ウンウンとうなずくだけでいいのです。
そうしてもらえることで子供はとっても大きな喜びを親に対して持つのです。
(5) ことばによるスキンシップ
スキンシップには二つのことがあります。
一つは文字通りからだと体の触れあいです。
時々、子供を「愛しているよ。あなたが大好きよ」と抱きしめたりしてあげることです。そうすると、子供は「私は親から愛されている、私の両親は私を大好きなんだ」と体で受け止めます。
もう一つは言葉によるスキンシップです。
子供の話を聞いてあげることは、体の触れ合いに勝る素晴らしいスキンシップになります。反対に子供が話そうとするのにそれを無視すると子供は親に拒否されたと思い悲しくなり心の傷となって将来に大きな影響を与えることになります。
だんだんと親に話さなくなってしまい他に話の出来る人を捜すようになります。そうなっては子供の世界が分からなくなってしまいます。この子は何を考えているのか私には分からないとおもう親が多くなっています。
そうなった原因は親の側にあることが多いのです。
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ミルクを与えているときも黙って与えるのでなく、生まれたばかりでまだ耳が聞こえなくても、「たくさん召し上がれ。おいしいですか。お母さんの大好きな何々ちゃん。」等と話しかけて飲ませるのと、まだ言葉がわからないからと言ってテレビを見ながら飲ませているのではミルクから受け取る栄養も違ってきます。
話しかけは心の栄養になってきます。これは一方的のように見えますがそうでありません。立派な会話なのです。
赤ちゃんはまだ言葉で答えることは出来ませんが眼差しや笑顔で答えてくれているのです。その笑顔を見ると本当に私たちは嬉しくなります。こうして親子の会話が始まるのです。子供に言葉かけをしながらすることはとっても大事なことです。
他のことをしながらミルクを与えたり食事を与えることはよくありません。私たちも食事をするとき楽しく話し合いながら食べた方が、黙って食べるよりもおいしく食べられるのを経験しています。
スキンシップは毎日の当たり前の出来事の中から築き上げられるものです。
話しが出来るようになった子と会話する時に、大切なことが三つあります。
①,子供の言ったことを心を込めて聞く。(ウンウンとうなずきながら)
②,子供の言いたいことを別の言葉で繰り返してみる(嬉しいことには、嬉しかったのね。悔しかったときには、悔しいのね。残念な話をしたときには、あら残念だったのね)
③,子供の気持ちをくんであげ、その気持ちを別の言葉で言い表してみる。(それはこんな事なの)
この様なことをすると、子供は、自分は理解されているんだ、自分の気持ちをわかってくれているんだと大人に対して信頼感を持つようになります。これを受容と言います。
結婚する前の私の娘は仕事から帰ってきた時、母親に色々なことを話しました。母親はその言葉に対して自分の意見や感情を挟まないでうなずいて聞いてあげるだけです。
(たまに私が父親として自分の考えを話すと娘は、そんなことでないの、ただ話したくなっているだけなのと、言われてしまいました)
娘はただ聞いてもらっているだけで満足し疲れがとれていくようです。
(1) お父さん、お母さん、お互いを受け入れましょう
以前、カウンセラーの学びをしたとき、聞くことの大事さを何回も教えられました。
飲食店で働いている女の人で一番人気のある人は美人ではなく、男性の話を上手く聞ける人だとその時先生が話しておられたのを今でも覚えています。
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ご主人は、仕事や人間関係で、イヤなことをたくさん経験します。その気持ちを胸に貯めておくことは精神上よくありません。そのため人はイヤなことをどこかで吐き出さなければなりません。
それを上手く受け止められるのが本当は奥さんでありまたご主人であるのです。
奥さんがご主人に対して一言「そう大変だったのね。」と、その気持ちを汲んであげたならご主人は、ああこの人は俺の気持ちをわかってくれている。自分のことを理解してくれていると嬉しくなります。
特に男性は単純なところがありますから、奥さんに対して喜びを持って接するようになります。
反対に、だらしがないね、その位で愚痴をこぼすなんて男らしくないわ。と励ますつもりで言っても何の効果もありません。かえって夫婦間の中は冷えて行くだけです。
また嬉しいときも私たちは誰かにそのことを話したくなります。心の中にしまっておけないのです。「そう嬉しかったのね」と一言言えたなら相手は本当に喜びます。
その喜びの源はここに自分の気持ちを受け止めていてくれる人がいる、自分と同じ考えの人がいる、共感された喜びです。
ご主人も、奥さんに対して同じように受け止めてあげることはもちろん大事なことです。
(2) 子どもを受け入れる
子供でも同じ事です。親が自分を受けとめてくれたと感じるときほど嬉しいことはありません。子供は誰よりも家庭の中で親から受け止められることが一番嬉しいのです。
どうぞ一日のうちで短い時間で結構ですからそのような時を持ってみて下さい。今の子供にとっての悲劇は、自分を受け止めてくれる人がいないことです。
お互い言いたいことは色々あるでしょう。でも少し我慢をしてまず相手の言うことをそのまま聞いてあげましょう。受け止めてあげましょう。そうすれば相手は落ちついてこちらの話を聞く準備を整えます。
繰り返しますが、まず相手を受け止め(受容)、理解(共感)してあげて下さい。
「 わが子よ、父の諭しに聞き従え。
母の教えをおろそかにするな。
それらは頭に戴く優雅な冠
首にかける飾りとなる。 」 ( 聖 書 )
(1) 何が大事か
「しつけ」の話をしますと、「先生、私たちは余り立派な行いをしていませんから、どうもしつけることは苦手なのですよ。」と言われる方がおられます。
「躾」は,字のごとく身体を美しく整えることです。
躾によって人間は人間らしく美しく生きることが出来るのです。その反対に、小さな子供に対して何もしないで子供がするままにさせておくと人間の美しさは身に付きません。
ですから、子供をしつけることはとても大事なことです。自分の子が人間として美しく育って欲しいと願う親は躾をしなければなりません。
しかし、それは、そんなに難しく考えることではないのです。子供を持つ親は立派な大人ですから、その人は社会の中で何をしてはいけないのか、また何をすべきかをすでに学んできているはずです。そのことをただ子供と一緒に生きていけばいいのです。
私の家の近くには広い交差点があります。毎日そこを歩いて渡っています。田舎ですから歩く人はほとんどいません。しかし立派な交差点であり、横断歩道もきちんと書いてありますので、信号が青に変わるのを待って道路を渡ります。
都会では歩いて渡る人が多いので道路は歩行者優先ですが、ここでは車が多く、渡る人が少ないのでどうしても車優先になってしまいます。
歩道を歩いていると、スピードをゆるめないで曲がってくる車が多くいます。私がそのまま進むと車にひかれてしまうので一歩さがって自動車が走り去るのを待ってから安全を確かめて渡るようにしています。
歩道の信号が青になったからと言って渡っては命がいくつあっても足りません。
先日の朝、交差点を渡っていたら大きなトラックが思いっきり私の目の前にきて急ブレーキをかけすぐ前に止まりました。今にもひかれるのかと思いました。背中には冷や汗がわき上がりました。運転手を睨みつけてやりました。彼はどこふく風と言わんばかりにそっぽを向いているのです。
この様なことは度々です。しかし、これは自分が気をつければ済むことですが、それ以上に腹が立つことがあります。
信号が赤で止まっている車には、窓を開けて吸い殻入れを外に出し道路にタバコの吸い殻を捨てる人がいるのです。
信号が青に変わるとそのまま車は行ってしまいますが、ゴミは残ります。あるいは飲み終わったカンをポイ捨て走り去る車が後を絶ちません。よく見ると若い夫婦であり車の中にはまだ小さな子供が乗っているときがよくあります。
子供は普段そんな親の姿を見て「ああ、ゴミや空きカンはこのようにして捨てるものなんだな」と学びます。
あの親たちは道路はゴミを捨てるところなのだと子供に教えているようなものです。ですから、その子たちは大きくなると親と同じように車の中からゴミを捨てるようになるでしょう。
子供が大きくなってからしつけることはとても難しいし、大きなエネルギーを必要とします。それに無理に直そうとすると枝が折れるように彼らはポキッと折れてしまいます(いわゆるキレタ状態になります)。
躾をする最適な年齢は三歳前後です。昔から、三つ子の魂百まで、と言われているのは本当のことなのです。
躾はそんなに難しいことではありません。人間として当たり前のことを当たり前のように子供の前ですることです。
(2) 教えることは
現代私たちの周りはゴミがあふれています。最初は少ないゴミ、小さなゴミでしたが今は量も多くなり環境を破壊するほどの大きな物になってしまいました。
私の住んでいる近くにも大きなゴミの山が野ざらしになっています。町で問題になり町長はじめたくさんの人がこのゴミを処理するように業者の人とかけあっています。
しかし一度捨てられたゴミはなかなか処理することは難しく最終的には自治体が税金を使って処理するようになってしまうようです。実際にあちらこちらの県ではそのような処理が行われています。
躾において厳しくするにはいろいろあると思います。私が考えるには、まずゴミを捨ててはいけないこと。ゴミは自分の責任で始末することが最初だと思います。
それは自分がしたことは自分の責任において片付ける。自分がしたことが他の人の迷惑とならないように教えることになります。
また、自分の部屋をきれいにする。自分の家をきれいにする。地域を、そして地球をきれいにすることにもつながります。きれいにするとそこが好きになり自分の住んでいる社会が好きになることにもなります。
この様にゴミを拾うように教える先にゴミを捨てないようにすること、ゴミは自分で責任を持って処理することを教える方が大切だと思います。
私の住んでいる地域では年に何回か一斉にゴミ拾いの作業があります。しかし、拾っても、拾ってもゴミは捨てられていきます。まるで、拾ってくれる人がいるから捨ててもいいんだと言わんばかりです。これでは悪徳ゴミ処理業者と全く同じです。
しつけは小さな身の回りのことから始めましょう。
(3) 親の教訓
私の親は、私たちが小さな時絶えず言い聞かせていたことがあります。それは「人様に迷惑をかけない、後ろ指を指されないように」と「知っている人にあったら自分から挨拶をしなさい」です。
大事な親の教えとして心にとめてきました。ですから小さいとき、近所の人にあったときは自分から大きな声で「お早うございます」と挨拶をしました。
これを聞いたおばさん、おじさん達は笑顔で明るく答えてくれるのです。そして又「あそこの息子は偉い。挨拶がちゃんと出来る」と褒めてくれるのです。
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もう一つは仕事のことです。
我が家は田畑が少ないながらも農家でした。両親は本家から分離しました。そして私たち三人兄弟を育てる為に一生懸命に働きました。
朝は暗いときに起き、夜は私たちが寝てからでないと仕事を止めませんでした。特に母は働き者です。又仕事が上手なのです。
私たちの頃はまだ機械化されていませんでした。全てが手仕事です。田起こし、田植え、鎌での稲刈り、母の仕事はスピーディーできれいに進みます。そして母は「私のやることをよく見て真似をするんだよ」と言ってお手本を示してくれたのです。
特に難しかったのは稲を刈る鎌を研ぐことです。ある程度作業が進むと切れ味が悪くなり能率が上がらなくなります。そんな時は砥石を持ってきて鎌の刃を研ぐのです。
手で研ぎますからバランスを崩すとかえって切れなくなってしまいます。刃を研ぐのには高度な技術が必要なのです。全神経を一点に集中しなければなりません。母はそれが得意でした。母が研ぐ鎌は切れ味が抜群なのです。
近くの人も母に頼むときがありました。私はその研き方をじっと見ます。手の角度や力の入れ方、一つ一つが勉強になりました。ですから今でも家での包丁を研ぐのは私の仕事です。親はこの様にして子どもを教えられて来たのです。
(4) 時には厳しく
世界史上最も有名な王に、紀元前約1500年に活躍したイスラエル王ダビデがいます。
彼は羊飼いの家に生まれ、7人男の子の兄弟で一番末でした。ダビデは出世してイスラエルの王になっただけでなく、当時のイスラエルを世界最強の国に作り上げました(日本の豊臣秀吉に似ています)。
彼が王位に就き、ほとんどのことを家臣に任せられるようになりました。そろそろ自分の後継者を誰にしようかと考え始めるようになった頃、沢山いた息子たちが王位に関心を持ち始めるようになりました。
そんなとき、一人の王子が自分勝手に王位後継者を名乗り始めるのです。そのためにほかの王子たちと争いが始まってしまいました。
この息子は計略が失敗し自滅してしまうのです。王子は何故このような計略を企て自分の身を滅ぼしてしまったのか、その原因を聖書はいみじくも次のように書きます。
「彼は父から、何故このようなことをしたのかととがめられたことがなかった」
父ダビデ王は自分の息子に対して「いけないことはいけない」とはっきりと教えてこなかったのです。そのため子どもはわがままになり、何でも自分の思うとおりに行くと考えるようになってしまったのです。
子供に対して善悪のけじめを教えるのは第一次的に父親です。悪いことはハッキリと、時にはきつく教えないと子供は善悪の判断がつかなくなってしまうのです。
何をやってもニコニコしておられる父親は一見優しそうに見えますが子供に対しての親として大切な責任を果たさないでしまうのです。父親としての役目はこのようなところにあると思います。またそのような父親は子供から尊敬を受けるようになります。
何をしても子供をしかってくれない父親は子供から相手にされなくなってしまいます。親の教えは子供にとって冠となります。ちなみにダビデ王の後継者はあの有名なソロモンがなりました。
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私は、いけないことをした子を職員室に連れてきて膝を曲げ、自分の目を相手の目線に合わせ相手の目をしっかりと見つめて話します。職員室に連れられてきた子は、気持ちの中で自分のしたことを反省するようになります。
子供は自分がしかられていることが分かると目をそらそうとします。でも話すときは目線を合わせてしっかり話さないとこちらの思いが相手に伝わらなくなり、いい加減な会話になってしまいます。
一時的に子供はつらい思いを抱きますが結果的には「園長先生はこんなに僕のこと想ってくれているんだ」と、こちらの思いをきちんと受け止め、より一層親しくなってきます。子供は不思議なものです。
聖書の言葉をここに書きます。参考にしてください。
「 鞭を控えるものは自分の子を憎む
子を愛する人は熱心に諭しを与える。 」
保育園では時間が来たら「おかたづけ、おかたづけ」と歌うように声かけをします。三歳くらいの子供でも自分で使ったものは自分でかたづけられるようになります。彼らには三歳から自分がしたのは自分でかたづける能力を持っているのです。
「家ではしないのですよ。園長先生、家でも出来るようによく言ってください」と言われることがあります。出来る能力を引き出すことは親の最も大切な子供に対する責任です。
しかし家にいてはなかなか子供の力を見いだすことが難しいでしょう。そんな時は保育園での様子を聞くと参考になります。
保育園では子供を客観的に見ることが出来ます。子供も家にいるときよりも自分でしようとする意志が見られます。
また保育園ではそれぞれに課題を出しています。カバン、制服は決まった所に置く、シールは自分で貼る、コップ、はしは自分で出し片付ける等々。
出された子どもたちは一生懸命にやり遂げようと頑張ります。それは親子の間に見られない子供の姿です。その頑張りを大事にしています。
子供は一人ひとり個性も能力も違いますが、どんな子でもやり遂げた満足感を味わうことが好きです。その過程の中で今まで見なかった力を見ることがあります。
保護者より保育士が子供のことを理解している場合があります。たまには保育園に来て時間を取って私たちと話してみませんか。新しい発見をします。
(1) 子どもをだめにする方法
子供をだめにする一番の方法は、何でも大人がしてあげて子供は何もしなくても全部済んでしまうようにすることです。
しかし、子供達を保育園で見ていると、保母がいろいろ手をのべてしまうと嫌がる子がいます。「僕はもう自分で出来るんだよ。あんまり手を出さないでくれ。」と言わんばかりで、自分で一生懸命にしようとします。
先程のお方つけもそうですが、園で特に心がけているのは衣服の着脱です。彼らは懸命に制服を脱ごうとします。制服や、衣類は着ることより脱ぐことの方が難しいようです。
はじめは脱ぎやすいように上のボタンを一つか二つはずしてあげてやります。それでも手を曲げたり、のばしたりして時にはうなりながら脱ぎ始めます。自分で脱げたときは,「先生見て、出来たよ。」とにこにこ顔して教えてくれます。
そこにいくまでには相当の時間がかかります。面倒だからこちらで手を貸して脱がせてあげようかなと思うときもあります。そうすると彼らは二度と自分から脱ごうとはしなくなってしまいます。
まだ子供が小さいときには、一つのことをやり通すに時間がかかります。まして毎日忙しい時間を過ごしておられるご両親にとって子供がすることを待つのは大変なことです。
仕事に遅れてしまう。食事の方付け、掃除洗濯、楽しみにしているテレビドラマ。やることはいくらでもあるのです。
子供がするのを待っていては自分の時間がだんだん少なくなってきます。そして、イライラが募り「早くしなさい。いつまでやっているの、のろまなんだから。」と子供に当たってしまうこともあります。
(2) 時間をとりましょう
私たちの世界はどんなに時間があっても足らないような毎日です。
しかし、一日をよく点検してみましょう。子供のために取れる時間帯があるはずです。もしなければその時間を作るように努力すべきです。
それが親になった人の責任であり、義務でもあるのです。またその時間を持つことによって親子のスキンシップは作られていくのです。
最近気づくのですが、時々何もしないでボートしている子がいます。みんなが遊んでいてもただ見ているだけで友達の中に入っていこうとしません。
先生が「これをしましょう。」と言うととてもよく出来るのですが、自分からしようとしないのです。いわゆる指示待ち症候群にかかっている子です。
その子の背景をよく観察していると、親が何でもしてあげてしまうのです。ですから彼らは自分から行動を起こさなくても何不自由しないのです。
子供のためにたくさんのことをして上げることが子供のためになると思っていますが、そのことは子供の持っている能力を発揮させなくしてしまうのです。
今は特に子供が少ないので沢山のことに手を出せるのです。かえって兄弟が多くてあまり子供に手を出せないでいる家の子の方がよく動きますし、何でも自分から出来るのです。
(3) おじいちゃん、おばあちゃんに一言
これに関しては、おじいちゃんやおばあちゃんは肝に銘じておくのが大切かと思います。
「子供にこんなことをさせるのはかわいそうだ。大人がしてあげた方が子どもは助かる。」 それが子供を愛することだと思っておられたら、一度その考えをよく点検されることを勧めます。
どうしても大人が手を出さなければならないことと、子供が少し努力をすればその子自身で出来ることを見分けられる目を備えることが大切でしょう。
子供の頃は同じ年齢でも相当の開きがあります。同じ年齢のこと比べることはやめましょう。比べられたら子供がかわいそうです。
おじいちゃん、おばあちゃんは自分の孫に惨めな思いをさせたくない思いがありますから、どうしても手を出したくなるようです。ですから、おじいさん、おばあさんによく話をして協力をしていただくことも大切なことです。
最初から上手に出来る人はいません。みんなうまくいかないなかから始まるのです。
ハイハイから一人で歩くときは感動します。それも、何回も失敗しながら転びながら、それでも何回も挑戦します。大人はその時手を出しません。手を出してしまうと自分で覚えられなくなってしまうからです。すべてはそこから始まります。
なるべく大人は手を出さないようにしましょう。 子供には苦労する力、頑張ることが出来る能力があるのです。
(4) もっとほめましょう
私たちは、親が自分の子供をほめるのを見ることは少ないです。
「先生、うちの子はここがまだ出来ていないので大丈夫でしょうか。」とか「先生、うちの子はだらしなくてこまります。」と言う親が多く見られます。どうも親は子供の良い点より欠点を見つけることの方が得意なようです。
人間誰しも欠点はあるのです。欠点のない人は不完全な人でないかと思います。欠点や、出来ないことがあって人間は人間らしく生きられるのです。
私たちは、人の欠点を探すのはとても上手です。また他人の欠点を話題にすると話が尽きません。
それに反して良いところを見つけるのは苦手なのです。自分の子供に対してもそうであることが多いように思えます。自分の子供ですから、欠点を見つけることよりも良い点、長所を見つける方が楽しいではありませんか。
保育園で一番人気のある遊びは砂山での遊びです。外に出ると小さい子も、大きい子も砂山に一番集まります(砂場ではないのです。砂山です。)
元気な子はてっぺんに登っていきます。その手には水をいっぱい入れたバケツを持っているのです。思いっきりバケツから水を流します。水は勢いをつけて流れ下ります。まっすぐに流れ下るのでなく、おもしろいようにくねりながら流れていくのです。
それをわきで見ている子は、流れに沿って水路を造ります。ある子は途中に水の貯まる場所を作りそこに水が一時たまるようにします。別の子はどこからか板を持ってきて水を止めたり水門のようなものを作ったりします。
そして、そこに一つの水の流れが出来てくるのです。
これを作るにはもうご存じのように一人では出来ないのです。何人かの子供達が力を合わせてそれぞれ役割分担をして作業をしているのです。
その仕事をしているときの顔は真剣そのものです。どの様にしたらより楽しくできるか、どこに水門を作ると格好良くなるかを無意識のうちに考えながら作業しているのです。
もちろん出来あがった時の顔は晴れ晴れとしています。「先生見て、見て」と彼らは嬉しさをみんなと分かち合うのです。
彼らは、そこで力を合わせること協力すること等多くのことを学ぶのです。
(5) 子どもの力
私たちの保育園では、かれこれ20年間マーチングバンド(鼓笛隊)を結成しています。運動会での発表、老人ホームやその他をお訪ねしての演奏等をしています。
彼らの演奏発表を見た人たちはほとんど感激します。でも中には「あれだけのことをするにはよほど厳しい訓練をしているのだろう。小さい子供にあんなに教えていいのか?」と疑問を感じる人もおられます。
ある時は新聞折り込みに批判的な広告を載せた人もいました。「出来ない子を無視して、出来る子供だけに気持ちが向いている保育はどうか?」と。それだけ子どもたちの凛々しい発表は多くの思いと驚きを与えるのではないかと思っています。
しかし実際、子どもたちの練習の姿を見ているとわたしは子供の素晴らしさに毎回驚きを持ちます。マーチングは・・・
1,努力する。
2,みんなと会わせて一つのことを作り上げる。
3,完成の喜びをみんなで共有する。
を目標に上げています。
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現代社会では努力することがマイナス面にとらえられています。努力しないで物事が進められることを目指しているように思えるのです。若者の言葉の中に「面倒くさい」が多くみられます。面倒なことは避ける傾向があります。
マーチングバンドは毎日少しずつ練習をします。スティックの持ち方、たたき方、リズムの取り方。
小さい子供ですからそんなに難しいことは出来ません。中には得意がってどんどん進もうとする子もいます。
でもみんなと合わせるのが目標ですから出来るようになる子を待ちます。もちろん自分の受け持ちを決める時は希望を聞いたりその子の姿をよく観察して適材適所に心掛けます。
積み重ねていくと少しずつ出来るようになります。姿勢を正します。みんなと合わせます。
自分勝手では合わせることが出来ませんから我慢することも学びます。我慢することを学ぶ大切さを感じます。このマーチング練習ではそれを学びます。
彼らは先輩の演奏を前年に聞いてあこがれています。自分たちもあんな風に格好良くしたい気持ちでいっぱいです。子供ながら目標を持つとたいていのことは我慢できるようになるのです。忍耐心もここでは学びます。
一曲完成すると次の曲は楽に出来ます。3〜4曲ぐらいを覚えます。
発表当日、運動会には沢山の人が来ています。少しの緊張感の中、演奏が始まります。真剣な眼差しです。今まで覚えたことを一生懸命に演奏します。少しぐらい間違っても堂々としています。
演奏終了後、大きな拍手が彼らを包みます。その時、子どもたちの顔にはやり遂げた喜びの笑顔が満ちあふれています。
「自分たちは出来たんだ!」保育士達もよくやった、良くできたと褒めます。子どもたち、保護者、保育士達が一つになる時です。
わたし自身震えるような感動に包まれます。目頭が熱くなるときがしばしばです。あんな小さな子供がよくもこんなに素晴らしい演奏が出来るものなのか。出来る大きな理由は子供の持っている力があるからこそであって、付け足しでない子供自身の力に驚きを覚えます。
私たちのすることは子供が持っている能力を引き出し伸ばしてあげることと思っています。
(6) 不自由さの中で
今は便利な時代です。努力することはマイナス的にとらえられています。便利なことに手を伸ばします。
買い物は、家にいてインターネットや通販で出来てしまいます。わたしの年代は買い物は店の人と会話をしなければ出来ませんでした。店の人も買い物に来る客がどこの人か知っていて楽しい会話の中で買い物が行われたりしました。
今は黙っていても、一言も話さなくて買い物が出来ます。かえって話すのが面倒だと言って支払いもカードで済みます。
人との会話を避ける人が多くなり、就職するにも上司と話すのが嫌だ、会社の会議に加わるのが面倒だと、家にいて出社しないでも仕事の出来る時代になりつつあります。
人と交わるのがおっくうになると家に閉じこもりがちになります。ゲーム、テレビ、パソコンが相手になる時代です。それらは機械ですから何でも自分の言うことを聞いてくれます。嫌ならスイッチを変えるだけです。
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最近、赤ちゃんの泣き声、表情を読みとる機械が出来たと言われています。
赤ちゃんを育てるとき、一番苦労するのは泣き声が何を訴えているか分からないときです。お腹が空いているのか、うんちが出たのかがすぐに分かればこんなに便利なことはありません。育児がとても楽になります。
でも果たして育児に機械を取り入れて便利にすることは良いことなのでしょうか。
泣き声一つで「はい、ミルクね」「はいパンパース交換ね」と片づけていくことは母親にとって便利ですが、これでは家畜を飼っていることと同じになってしまうと思います。
赤ちゃんが泣く声を聞いて何を訴えているのか、赤ちゃんの表情・泣き声から赤ちゃんの気持ちを理解する努力が、親子の愛情を築くとても大事なことになってくるのです。
何でも便利になれば良いものではありません。子供に対しても便利さを追求することだけを与えていくことは良くないのではないのでしょうか。
(7) 朝食の大切さ
赤ちゃん誕生の時、脳の大きさは約400CCの容積と言われています。これは脳に障害を起こさないで産道を通って生まれてくるときの限界の大きさだそうです。
しかし子供が成長するに従って容積が増え、大人になると赤ちゃん時の3倍になると言われています。
そして子供の脳の発育速度は0歳児から5歳児でピークに達し、出生時の2倍以上になり、わずか5年の間に成人の8割がこの時期に作られていくのです。
ですからこの時期、子供が受ける影響、環境は脳の成長に大きく関係してきます。
赤ちゃんの脳は生まれた直後で約400グラムですが、生まれた直後から外界の影響に刺激を受けながら急激に発達し重くなってくると言われています。
0歳児から5歳児までに3倍以上の1200グラム、10歳で1300グラム。こうして人間の脳は胎児の時から5歳ぐらいまでの乳幼児期にそのおおよそが出来るので、この時期の子育てがいかに大切かがわかります。
成長に大切なのは栄養です。この時期に十分な栄養を子供に与えないと脳の発達が遅れてしまいます。
保育園で食についてのアンケートをとったときがあります。朝、食事を食べてこない子供が20パーセントいました。朝食抜きの子は保育園に来ても落ち着きがありません。いらいらしています。
ですから、忙しいでしょうけれども朝のご飯を食べさせてくださいと何回もお願いします。最近は登園する車の中でパンやおにぎりを食べながら来る子供も見ます。
大人の朝食抜きと子供の朝食抜きとではその影響は比べられないくらい大きいのです。子育ての中に占める食育はこれからも大事なこととして叫ばれてきます。
子供は大人が用意してあげなければご飯を食べることは出来ないのです。お母さん、子供には朝しっかりと食事を与えるようにしましょう。
忙しい中、食事を準備することは大変なことです。昨夜の残り物でもいいのです。前の晩は多めに作っておき翌朝少し手を加えてあげるとおいしく食べられます。
朝、しっかりと食べた子供は一日元気に過ごせます。そして脳も活発に働くのです。
(8) 気軽に教えてもらいましょう
私は30年近く保育園で子供達を見ています。よく聞かれることに、子供は昔と比べて変わってきてますかと言うことです。でも私が見ているところでは30年前の子供も今の子供も子供自体は同じですと答えます。
変わって来たのは子供を取り巻く環境です。環境はものすごいスピードで変化しています。これは誰でもが実感しているところでしょう。
子供にとっての一番大きな環境は近くにいる大人、両親です。最近の子供は昔と違って扱いにくいと言うのは間違いです。最近の若い親は昔と違って変わってきていると言った方が子供にとっては助かります。
「親の背を見せる」は死語になってしまったと言われます。それだけ親は変わってしまったのです。
結婚する時よく耳にする言葉に「出来ちゃった婚」があります。その言葉の背後には、出来ちゃった、しょうがないから結婚して子供を産もうかがあるのではないでしょうか。
しょうがない、出来ちゃったから生まれてくる子供はかわいそうです。昔の親は、子供は天からのさずかりものと言って子供の誕生を受け止めました。このことを考えただけでも子供が生まれてくる環境は大きく変化しているのです。
4、5歳の子供達には素晴らしい能力が備えられているのです。その力を見つけて下さい。そして、彼らをいつも誉めてあげて下さい。親に誉められるほど子供にとって嬉しいものはありません。
私たちは自分の子供に対して「早くしなさい。早くしなさい。」とよく言います。忙しい現代です。何事も早くしないとおいて行かれてしまう気がします。トイレに行っても早くしなさいでは、ウンチも驚いて出てこなくなってしまいます。
「どうしてうちの子はのろいのか。」と悩む前に、子供には子供のリズムがあることを認めましょう。そのようにして子供を見ると子供の素晴らしさがよくわかります。
あなたのお子さんです。誉めたくなるものがいっぱいあります。「良くできたね。良かったね。ありがとう。」一日何か一つ誉め言葉をプレゼントしてみませんか。子供は、お母さんが大好きになります。
しかし、親はいつも自分の子を見るときには主観的になってしまいます。ある面しか見えないのです。特によく見えるのは子供の欠点です。
良いことを親子関係の中で見つけるに苦労をします。ですから時には子供を預かっている保育園で子供の様子を聞くのが必要です。
我々はどちらかと言えば親と違って子供達を客観的に見ているのです。そのような立場で見ると子供の良いことやもちろん直した方が良い面もわかってくるのです。身近にいる人を大いに利用させていただきましょう。
(9) ありのままの姿を受け入れましょう
毎年4月になると新しい子供達が入園してきます。
保育園ですから小学生のようにピッカピッカの一年生と言うわけにはいきません。お母さんの手をギュと強く握って不安げな顔をして来ます。余り握りが強いために手が離れなくなってしまいます。
仕方ありませんから力を入れてお母さんの手から離します。離された子供は今までの思いを一気に吐き出し、大きな声を上げて泣き始めます。時には体全体を使って泣くときもあります。
しかし、その姿を観察していると、数日過ぎると泣いていても目が動くようになるのです。その目線の先を見ると友達が遊んでいる姿や、おもちゃなどを追っているのです。
もうこの子は泣きながら自分の入るべき場を探し始めているのです。そんなとき本当に子供はすごいなと驚いてしまいます。
家に帰ったら泣いていたことなど言わずに「おにいちゃんたち、こんなことをしていたよ。」とか「こんな遊びがあったよ。」と得意げになって報告するのです。
担任の先生を、泣きながら品定めする子もいます。
この先生はここまで泣いたらこの様にしてくれる。先生は自分が暴れるとすぐに手を出してくれるから先生にかまってもらいたいときには暴れてみよう等と、知恵を働かすのです。
子供の持っている知恵には驚かされます。ですからこちらも相当の覚悟をしていないと負かされてしまいます。時には保母と子供が真剣になって知恵比べをするときもあります。
かえって思い切り泣くほうが早くなれるのです。その子は泣くことによって自分の感情を発揮しているのです。
その反対に、静かにメソメソとお部屋の隅で泣いている子は集団生活になれるのに時間がかかります。たいていお家で「保育園に行ったらお利口さんをしているのだよ。」聞かされていることが多いのです。その言葉が働いて自分の感情を出すことが出来なくなっているのです。
私はありのままの姿で保育園に送って下さいといつも話します。幼いときには、痛いときは「痛い。」、嬉しいときは「嬉しい。」、悲しいときは「悲しい。」と自分の感情を外に出すことが大切です。
子供は色々な言葉を使うときもあります。特に悪い言葉を面白がって使います。実際に使ってみて初めてこれは悪い言葉、これはよい言葉を学ぶのです。
ですから最初は、この様にしていなさい。あれをしてはいけません。と子供を縛らない方が良いのではないかと思います。
(1) 自我の目覚め
子供達は二歳頃から他の人の物を取る傾向が強くなってきます。まだこのころは穏やかですが、三歳を超える頃になると自分の物という意識が強くなり簡単にはあきらめません。
相手に貸すこともそう簡単ではなくなってきます。そこで争いが起こってきます。
最初は相手を押したりして欲しい物を自分の物にします。そのうち爪が生えてくると爪で相手を攻撃します。さらに大きくなってくると拳を堅く作り手を振り上げて相手をたたくようになってきます。
それがさらに進んで手に武器を持つようになってくるのです。
これは自分が意識されてきた段階であり一つの成長過程ですから驚くことはありません。はっきりと自分のものとして物事を見ることができ自分のものと判断できるようになってきたのです。大きくなってきた証拠です。
(2) 喧 嘩
保育園の子供達の喧嘩を見ていて(私は喧嘩をすぐにはやめさせないのです)感心することがあります。彼らは怒りながら喧嘩をするのですが、その後はケロッとして感情を後に残さないのです。
大人でしたら後味が悪くなるのですが、子供にはそのようなことはなく、二歩歩くと今したことが嘘のようにわだかまりなく、一緒に遊び始めるのです。私自身こだわる正確なので子供達のこの姿には驚かされます。
この姿を見るためには大人が立っていて上から眺めては見えません。一緒に砂遊びをするとか、子供達と駆け回っているとよくわかるようになるのです。
保育園では男の人が少ないので私が行くと子供達は「戦いをしよう」と言って身体ごとぶつかってきます。その子たちを受け止め、時には一緒になって転がると彼らはいよいよ喜んでそこに乗ってきます。(最近は以前のような元気さが無くなってきました。)夜風呂にはいるときアザが出来ていることもあります。
お父さん方、毎日お仕事で疲れているとは思いますが、時には子供と体を使って遊ぶことをしてみませんか。子供の姿が見えてきます。
今まで気がつかなかったことが分かってきて子供に対しする理解度が大きくなります。
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喧嘩を見ているとおもしろいことがあります。先程も言いましたが、子供は恨みを持たない。感情を後まで持ち越さない。それどころか喧嘩をすることによって自分の力加減を理解します。
そこには一種の力関係が出来、それにふさわしい交流が始まるのです。そうなるといじめも起こらないし、力のある者は他者に対する思いやりを持つようになります。そのグループには秩序が生まれます。
これは子供同士の集団の中で生まれるものです。
今、少子化傾向で子供同士がぶつかり合うと親がすぐに止めに入ります。彼らは充分に力を出し切らないうちに離されてしまうので自分がどのくらい力を持っているか理解できないでしまうのです。
ですからいつも自分が一番偉い、一番強いと誤解してしまうのです。特にお家で王様なっている子が多く見受けられるようです。
私たちが子供の頃は遊ぶのは裏山に行って篠竹を切り、それを刀にしてチャンバラをしました。そこには力のバランスがあり秩序がありました。
夏には、前川に行って水遊びをしました。まだ学校にはプールがありませんでしたので地区ごとに泳ぐ場所が指定され川で泳ぎを覚えました。大人たちは農作業が忙しいので泳ぎを教えてくれませんでした。泳ぎは上級生が下級生を教えるのです。力のある人は運動も上手でしたから下級生に教えるのは彼らの義務でもあったのです。
そのようにして彼らは他者に対する配慮をも学ぶのですこれは人間が哺乳動物として本来本能的に身についているものではないかと思います。
今は時代も変わり、力がある人は勉強の出来る人、点数を他の人よりも多く取った人になりました。これは人間本来の姿ではないような気がします。
確かに出来ないよりは出来る方が良いに決まっていますが、点数の多く取れる者が人間として幸せな生活を送っているとは限らないのです。かえって他者に対する配慮を持つ者の方が幸せな生活を送っているのです。
これらのことは学校に上がる前に色々な経験を積むことによって養われていくものです。子供の目線に合わせて子供たちの生活を見ることは大切なことです。
時には彼らと同じ気持ちになって遊んでみましょう。私たちはみんなかつては子供であったのです。すべての人は子供時代を経験しています。時には子供に戻ってみるのもいいものです。
(3) 喧嘩といじわる
喧嘩といじわるは一見行動が似ていますから見分けるのが難しいのです。大きな違いは、喧嘩は相手と対等にやり合い決着が付きます。負ければ悔しいものです。でも何故自分が負けたか負けたなりに納得するものです。
しかし、いじわるには、いじわるされた者が何故自分はいじわるされるのかはっきりしないのです。理由もなくされるのです。
する方は相手が困っているのを見て喜ぶのです。子供の間には小学生になる前からいじわるの動きがあります。後ろから思いっきり背中を押す。物を投げて当てる。当たった相手が泣くのを見て喜ぶ。この様なことは小さいときにつみ取るべきです。
喧嘩はおおらかに見ていますが、いじわるの現場を見つけたときにはその場で思いっきりの注意をします。
最初は黙ってしまいます。下を見て返事もしません。何とかその場をごまかそうとします。それに対してまず今自分が何をしたか思い起こさせます。それが悪いことであることを話します。よく言い聞かせます。
また、人の迷惑になることを見たときも同じように注意します。最近の親は余り注意をしないようです。するときは自分が感情的になってしまい、感情むき出しですることが多いようです。
親が感情的になってはいけません。顔は怒っていても心は冷静に働かせましょう。そして、いけないことはいけないと小さいときから教えましょう。
(4) 子どもの主体性を重んじよう
最近は、お父さん方が子供と遊ぶ機会を積極的に作っている姿を見ます。
子供会にしてもリードするのはお父さん方です。お父さんたちが作った環境に子供を迎えて遊ばせます。これはどちらかと言えば大人の目で見た遊び作りです。大人達が準備をする遊びは一見楽しそうに見えます。
子供が困るとすぐに助け船を出します。子供は余り考えないで、余り苦労しないで遊びを完成してしまうのです。
本来、子供達は自分で考えながら自分に合った遊びをするものです。子供達の遊びを見ているとその発想のすごさに驚きを感じます。正に子供は遊びの天才です。そのことを大切にしたいと心がけています。
自立心は子供が苦労したり困りながら遊んでいる中で養われるものです。天才には天才にやり方があります。彼らに任せた方がいいのです。
親と子の関係は基本的には1対1なのです。子供達のためにしていると言いながら実は自分たちの満足の為にしている大人のグループが多いように思います。大人は外から子供の遊びを見守るのがいいのです。
子供たちは自分たちなりに考えて遊びを作っていきます。
子育てには結論はありません。毎日考えながら、これでいいのかしらと心配しながらしています。ですから、ここに子育てのマニュアルを100パーセント書くことは不可能です。
大切なのは、自分一人で悩まないで近くにいる経験者や地域にある保育園などに気軽に相談することです。
「子宝」と言う言葉があるように、子供は私たちの宝物です。家の宝であり、国家の宝です。せっかく委ねられたのですから大事に育てていきましょう。