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Q10、いくら出来が悪くても、たとえ親を親とも思わなくても自分の子供を火の中へ投げ入れるような親はいないと思います。イエス.キリストの絶対的な愛の神と、旧約聖書や黙示録のさばきと怒りとは大きな隔たりを感じるのですが?(30代主婦)


A10

◆愛の神と義の神




 現実に聖書を読んで、愛の神と義の神、その二種類の神が居られる様な気がするのは、きっとあなただけではないでしょう。




 しかし、聖書は神は愛であり(第一ヨハネ4:8)、そして同時にさばき主でもある(ローマ2:16)と伝えています。




 私達はこの矛盾に満ちた聖書のメッセージを受け入れられず、ある場合には、さばきのみを強調し恐怖心を煽り立てたり、また逆に耳ざわりの良い「愛」のみを強調し、福音を骨抜きにしてしまうことがあります。




 さらには両方のバランスを意識するあまり、厳粛なさばきへの恐れや本当の愛の豊かさを割引きしてしまうことすらあるのです。都合の良い理屈で矛盾を整理したり、どちらか一方を強調し、納得しやすくしてしまう危険に、お気付きになったでしょうか。






◆親としての神の苦悶




 さて、神の私達への関係は、親子関係にたとえられます。




 もしあなたのお子さんが癌で苦しんでいるとしたら、あなたはきっと我が子を愛すれば愛する程癌を憎まれるでしょう。癌の被害者だからです。




 同様に神は私達を愛すれば愛する程その罪を憎まれるのです。罪は人間の不幸の原点だからです。しかし、神の苦悶は、私達が単に罪の被害者であるという以上に、罪人としての加害者でもあるということです。




 神はあなたを限りなく愛して居られます。しかし、もしあなたに罪があるなら、義なる神のまえにさばかれ焼き尽されなければならないのです。




 聖書がこのふたつをはっきり伝えている以上、曲げることも打ち消すことも決して出来ません。義であり聖なる神があなたへの愛を貫くために残された道が、罪なき独り子の十字架でした。




 あなたの問に最も苦しまれたのはキリストであり、神ご自身だったのです


Q11、クリスマスは12月25日ではないと聞きましたが、確かに聖書にも何月何日にイエス・キリストがお生まれになったのか書いていないように思います。本当はいつがキリストの誕生日なのでしょうか。(20代男性、学生)


A11


 伝統的に12月25日をイエス・キリストのお生まれになった特別な日として祝いますが、あなたの言うとうり聖書にはキリストのお生まれなさった日付けは、どこにも記されていません。




◆「12・25」をめぐる謎




 ではどうして12月25日がクリスマスになったのでしょうか。




 エホバの証人の方々は、クリスマスが当時ギリシャ、ローマで普及していたミトラ教の太陽神の祭から来ているという有力な説をとりあげて、その日に祝うクリスマスの意義そのものを否定されています。




 なぜ聖書にはキリスト誕生の日付けがないのでしょう。なぜこの日付けが異教の習慣とかかわると言われているのでしょう。このような疑問は難解なものですが、取り組むことによって意外なドラマが繰り広げられます。






◆なぜ「12・25」がクリスマスに?




 現代人にとっては個人の誕生日は大切なものとして覚えられることが多くなってきていますが、二千年も前のユダヤ、パレスチナの文化においては「日付け」よりも、どこの誰からどのように生まれたのかという「関係」や「出来事」が関心の中心だったようです。




 ですから、「クリスマスはいつだったのか」という疑問はむしろ現代的と言えるでしょう。




 個人主義とは縁の薄い文化においては、年に一度の記念日はたいてい国や村、また諸集団と結び付きます。そういった文化の中にあってキリストという一人の方の誕生日が祝われ、日付けも定着したということ自体、特別なことです。それは、当時キリストの影響がいかに広くまた深く浸透していたかを物語っています。その影響は今や、時代も国境も超えています。




 ところで、すでに触れたように、この日付けはミトラ教との関係が指摘されています。この宗教はペルシャに起源を持ち、紀元前三世紀頃栄え、後にバビロニアを経てギリシャなど各地方の宗教と習合しつつローマにも広まったといわれています。ですから四世紀までには当然キリスト教との接触も考えられます。




 12月25日はミトラ教にとって重要な日です。その頃から日照時間が長くなることから、太陽の霊が息を吹き返す日として「太陽の誕生」の祭が行われていました。




 その中にキリスト教が浸透していき、クリスチャンが、12・25を「義の太陽」であるイエス・キリストの出現(誕生)の日として異教に対抗する祭をはじめました。そして古い祭は消え、新しい祭は世界にひろまったのです。






◆本当のクリスマス




 たしかに、異教的といわれるものが知らず知らずのうちに入り込んだことは、否めないでしょう。




 その点で、「義の太陽」の祭としてはじめられたクリスマスは、当初から常に反省と吟味を必要とするものであったといえます。そのことは現代においても同じです。




 しかし、当時のクリスチャンにとってはこの祭のおかげで、異教の祭に行かずにすみました。さらにこの新しい祭は、造り変えられ新しくされた者たちの信仰のしるしでした。




 降誕の「日付け」より大切なことは、キリストがこの地上に、そしてローマという異教の地に来られたという実際の「出来事」です。キリストが来られると、そこにあるものがみな新しく造り変えられるのです。しかも、新しくされた喜びはどんどん広がる力があります。




 これは、あなたの人生にも起こり得ることです



Q12、プロテスタントのキリスト教にはいろいろな教団教派があり、それぞれの伝統の正統制を主張しあっているように見えます。なぜカトリックのようにひとつにならないのでしょうか。(20代男性、学生)


A12

◆伝統という名の神




 キリストを信じ人生が神の霊によって新しくされ、その感動と喜びをもって集まりそれを与えてくださった偉大な神を賛え感謝する。これはまさに生きた教会の姿です。




 やがて、そのキリストの福音が多くの方々に伝えられ、喜びが広がっていきます。多くの方々が集まるようになると、当然秩序が必要となり、やがてその秩序は伝統となっていきます。それ自体は、信仰生活において自然なことでしょう。


 問題となるのは秩序や伝統に対する私たちの態度なのです。




 もし伝統を絶対化しそれ以外の信仰の在り方を否定していくとしたら、それは伝統を神とする偶像礼拝にほかなりません。それらは、キリストという命の水を入れる器のようなもので、器自体に命はないのです。




 逆に信仰さえあれば、どんな伝統も要らない、と言う態度も自分の経験を絶対化する危険をはらんでいます。






◆歴史から学ぶと




 私たちを含め、どの時代のクリスチャンもこれらの危険から守られた温室にはいないことが、歴史を見ると分かります。




 例えば、私たちの母体であった中世のカトリックは(後の英国国教会も含め)伝統を神の位に引き上げるという失敗に陥りました。




 器が神となり命の水を失っているとして立ち上がったのがルター、カルヴィンそしてウエスレーだったのです。そこからまた様々な伝統が自然なこととして形成され、今に至っています。




 教派が多いことは弱さの現われであり、形骸化した中からも水がわき出る命の印でもあるでしょう。




 私もプロテスタントがひとつになったらと思いますが、それが教団教派という組織もしくは器に於てであるなら、神格化の危険が伴うでしょう。様々な器でも同じキリストという命の水を飲むことこそ大切なことです


Q13、アメリカはキリスト教国と聞いていましたが、現実には離婚、家庭内暴力、性道徳の乱れ、幼児虐待、等の家庭問題が深く人々の心をむしばみ、様々な恐ろしい犯罪を生みだす大きな要因になっていると知りました。キリスト教は本当に力のある宗教なのですか?(20代女性、学生)


A13



キリスト教国にこのような深刻な問題が存在することは、曖昧ながらも一般的に抱かれているキリスト教への高い倫理的イメージと矛盾し、どうしても首をひねりたくなります。




◆見方で問題が変わる!?




 素朴な疑問はものごとを理解することへの出発点です。ところが、現実を理解するということは、必ずしも出発点から近いところにあるわけではありません。




 特に白黒のはっきりしない領域は、その解釈者のものの見方や先入観、さらには個人的感情で判断されてしまうことが多分にあります。それはある出来事を理解するうえでも、ある国の社会的問題を理解する時にも、さらには人を理解するという時にも、気を付けるべきことです。




 基本的に大切なことは、現実を適切に区別しつつ、係わりを見いだしていくことです。この観点から考えてみると、アメリカの家庭(社会)問題とアメリカがキリスト教国であることと混同することも、またアメリカとキリスト教を混同することも、問題です。




 確かにアメリカをキリスト教文化圏の中に位置づけることは可能でしょうが、本当にキリスト教国であるかどうかは慎重に判断する必要があります。




 仮にもキリスト教国として国民の大多数が聖書の教えにそう生き方をしているのなら、現在のような状況にはなっていなかったでしょう。




 家族や社会の問題とキリスト教を混同してしまうことも、逆にそれらを全く分離してしまうことも問題です。大切なことは、信仰や宗教の問題と社会問題とを混同せずに区別することです。




 さらに本当の理解に近づくためには、それらの事柄がどのように係わりあってきたかを把握していくことです。では実際に、キリスト教文化圏にあるアメリカのこのような問題をどのように理解したらよいのでしょうか。






◆社会の変動とキリスト教




 もちろん、このような問題を理解することなど、不可能に近いことでしょう。ここでは、理解へのヒントとなるような視点をここで挙げることにしましょう。




 まず、近代化に伴う社会の激しい変動が家庭生活や個人の生活に著しい変化をもたらしたことは、言うまでもないことでしょう。問題なのは、そのような社会変動のプロセスにおいて伝統的キリスト教がその真の福音(聖書の中心メッセージ)をもって、その変動の中で出てくる様々な問題に光を提供するのではなく、むしろ、伝統を守ることに傾いてしまったことです。




 その結果、教会と世の中とのギャップが広がり、それとともに深いレベルでの影響力を失っていきました。




 教えそのものも実は時代の流れの中で変質していきました。例えば、キリストは、社会的に見捨てられている人々に手を差し伸べながら「神の前における人間としての本当の価値」を教えられました。




 ところが、皮肉なことに教会自体の世俗化により、神を見失いかけ、人間の尊厳が個人主義的に解釈され、本来のキリストの教えとはかけ離れたものとなってしまったのです。






◆「キリスト教」と「キリスト」




 病めるアメリカと言われるなかで、もう一歩も二歩も近づいてみるなら、実際の社会や家庭の問題のただ中で多くの方々が神に立ち返り、キリストの力によって新たな人生を歩みだしているのも、紛れもない事実です。




 たしかに「キリスト教」にはそれほど力はないかもしれません。しかし、もし私たちが「キリスト」を受け入れ聖書の光によって生きるなら、「教会」や「キリスト教」がどうあろうとも、信じる一人一人の内側から作り換えられ、さらにその家族も、その回りも新しく造り変えられるのです。



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