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Q25、聖書の中に、キリストが水をブドウ酒に変えたり、湖の上を歩いたり、死人を蘇らせたり、というような奇跡さえなければ、信じることが出きるのですが。(30代男性、会社員)


A25

◆奇跡を締め出した世界




 もし聖書から奇跡を取り除き、自分が納得出きることのみを信じるとしたら、それは神を信じるというより、むしろ自分の理性を信じていると言うべきでしょう。




 しかし、人間の理性や知性は罪の故に「暗くなった」(ローマ1:21)結果、その理性によっては決して神を認めることは出来ない(第一コリント1:21)と聖書は伝えています。




 罪によって神と人間との間に壁が出来てしまい、奇跡としか映らないような祝福に満ちた神の世界を受け入れることが出来なくなってしまったのです。




・・・・・




 ところで、ノミをビーカーの中にいれその上に透明なガラスを置くという実験があるそうです。




 そのノミは元気よく跳ねると何かにぶつかるので、やがてぶつからないように一定の高さに加減して跳ねるようになります。その後で上にあるガラスを取っても、そのノミはいっこうにビーカーから出ようとしないそうです。




 自分の限られた経験によって、知らず知らずのうちに築き上げられた知識や常識という枠の中でのみ生きている、そんな私たち人間の姿を暗示しているようです。






◆奇跡を生み出す世界へ




 奇跡は私にとっても信仰のつまずきの石でした。




 奇跡を乗り越えられないのは信仰が足りないからだと思って努力したところで無駄でした。本当につまずいてしまったのです。




 しかし、そんな中で、頭蓋骨骨折という自分の命の危機にさらされた時、「納得し、信じられる世界」という枠内でのみ生きている自分自身の愚かさに気付かされ、真剣に祈りました。




 そして、奇跡を締め出した小さな世界から、奇跡を生み出す神の世界を受け入れる決心をしました。




 自分がつまずいたその石は、「信じられる世界」という殻を破り、私を信じられないような「奇跡を生み出す世界」に導いて下さったのです。


Q26、私にとって聖書は、日本人とは、かけ離れた民族のとても排他的な宗教のイメージが強く、とても難解で読みづらい本なのです。聖書がこの世の全てを創造した神が人類に残した唯一の真実の書であるのなら、どうしてもっと誰でも読みやすく、分かりやすい内容でなかったでしょうか。(20代女性、学生)


A26


◆聖書はむずかしい?




 聖書の難しさは、人によって違って受けとめられるでしょう。




 他宗教の難解な教典やさまざまな古典と比べるなら聖書はずっと分かりやすいと感じるでしょう。しかし、読みやすいエッセイや小説と比べるのなら、難しく感じます。




 あなたが言われるように、ユダヤ人を中心にして書かれてある聖書の民族色は、確かに聖書との隔たりを感じさせる要因となるでしょう。ところが、この民族性のなかに神の啓示のすばらしさがあらわされているのです。




 神は人類へのメッセージを、「哲学や理論的に整った神学をもって歴史や民族を越えた真理を伝える」、といった洗練された方法をおとりになりませんでした。




 むしろ、取るに足りない最も小さなイスラエルの民を選び (申命記7:7)、奇麗ごとなどいっていられない現実の中に介入して、その民をつくり変え、彼らを通して神のすばらしさを伝えるという方法をとられたのです。




 多くの失敗の中で神の器へとつくり変えられていく、その彼ら自身の感動、賛美、信仰告白、そして、この歴史的事実の証言をもって神のメッセージが私たちに伝えられる。それが聖書なのです。






◆聖書は食物




 聖書は、私たちが一生涯かけて食べる命の糧です。




 神は、読み易くし、知識を与えることよりも、私たちがその命によって変わることを願っています。




 食物の栄養素が分からなくても、食べれば力がつくように、み言葉もまず食べる事です。




 み言葉はあなたをつくり変え、神の民の感動、賛美があなたのものとなるでしょう。それは、聖書との隔たりが縮まるどころか、一体感を味わう事なのです。




 「御言にはあなたがたの魂を救う力がある」(ヤコブ1:21)




Q27、先だって何万年も昔の人骨が発見されたとのニュースが伝えられました。聖書にあるアダムの誕生が紀元前約六千年前とすると、地球上に何億年もの間恐竜が生存していた事実や、これらの年代のギャップはどう解釈したらよいのでしょうか。(30代男性、広告業)


A27


◆聖書と科学




  ひとつの科学的説明が本当に事実かまた真理といえるのかということは、その説明の土台となる理論的思考の枠組み(パラダイム)に依存していると言われています。




 ですから、新しい枠組みの登場によって新説が生まれ、今までの説が覆される可能性は常に存在しているのです。六千年、何十万、何億年という数字もいつ新説によって塗りかえられるか分かりません。




 ところで、物事を伝えるのには、色々な方法があります。




 ひとりの青年が、バスのあとを全速力で走っているのを、二人の方が、限られた紙面で描写したとしましょう。




 そのひとりは科学者で、青年の筋肉の動きや、運動 量と酸素の必要量、呼吸の激しさの相関関係、バスとの距離と速度関係を、見事に書き上げたとします。




 もうひとりは、その青年の親で、こう記しました。人目も気にせずバスを追う息子のあの走り方は、普通ではない。その呼吸の激しさは、バスに乗っている彼女への思いの激しさを物語っている。バスが、排気ガスをまいて息子から離れていく光景に、手に汗を握った。






◆科学の目と聖書の目




 科学者は「どのように How」、親の方は「なぜ Why」に焦点をあてて描いています。




 科学者がその青年の親に向かって、あなたの記述は科学的でないからでっち上げである、といえるでしょうか。親は、起きた出来事の中で、重要だと思われることを選んで書いたのです。




 聖書は、その親のとった書き方に近いのです。




 紙面に限りがあるので、私たちの科学的知性を満たすためではなく、人は何のために生き、なぜ死ぬのかという、人生において重要なことが選ばれ、書き記されているのです(ヨハネ20:30〜31、21:25)




Q28、聖書は、読んでも読んでも分からないことだらけで、途中で投げ出したくなります。人の勧めで福音書を読んでいますが、分かったような分からないような喩え話がのっており、なかなか理解できません。どうしたら分かるようになりますか。(30代主婦)



A28


◆「分からないこと」の大切さ




 分かるようになりたいという気持ちは、とても大切ですし、それが理解への第一歩ともいえましょう。私自信も、同じ気持ちです。




 ところで、自分の髪の毛の本数を、いったいどれだけの人が知っているでしょうか。私たちは、知っている世界がどれ程小さなものであるか、実は知らないのです。




 宇宙を研究する人も、生命体を研究する人も、物事が分かれば分かる程、分からない世界が広がると聞いたことがあります。




 ところで、現実の私たちは、時間と共に過去のことはどんどん分からなくなり、現在の事も、まして未来の事はほとんど分からない。人のことも自分のことも、ほとんど何も分かっていないのかもしれません。




 私たちの人生は分からない事、知らない事、分かり得ない、知りえない事々で包まれているとすら言えるでしょう。




 「知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」(第一コリント8:2)という謙虚な姿勢が、聖書を前にして大切なことです。






◆「分からないこと」とのお付き合い




 さて、あなたは分からないことと、どう付き合っていますか。その付き合い方で、人生は大きく違ってきます。




 聖書の読み方においても、分からない箇所とどう取り組むかは、重要なことです。分からないことの故に、いらいらする人、眠る人、投げ出す人、研究する人、疑う人、逆に信仰を厚くする人、と様々でしょう。




 分からない箇所があるという事は、聖書の世界が、あなたの分り得る世界より遥かに広いということです。




 しかし、今分かるみ言葉によってあなたの世界が広がり、やがて分かるようにさせていただけるのです。




 「分かった神は、もはや神ではない」と言われるように、私たちの脳で「分かる」という小さな世界に神ご自身が収まるはずはありません。ですから、神の言葉である聖書が、私たちの理解を超える大きな存在であるのも、当然といえば当然です。




 聖書にある奇跡が「信じうる世界」を超えるように、喩えもしばしば「分かりうる世界」を超えるのです。では、なぜキリストは多くの教えを喩えによってされたのでしょう。






◆喩えは奇跡を生み出す




 ルカ8:9〜10をよく読んでみると、主イエスが喩えを用いるのには、少なくとも二つの理由があります。




 一つは、神の国の奥義を明らかにすることです。奥義は、直接言語化し説明出来るものではありません。




 何十年ぶりに、自分の家族と再会するその喜び、愛する人を失う悲しみ、苦しみ。これらは、説明や言葉などに収めることが出来ません。




 神の国のすばらしさも、神から離れた世界の恐ろしさも、言葉を超えたものなのです。それを敢えて私たちに伝えるために、喩えをお用いになったのです。




 もう一つの理由は、神の国の奥義を覆い隠すことです。第一の理由と正反対です。




 信仰をもって神の言葉に耳を傾ける者、すなわち「聴く耳のある者」にのみその奥義が開かれ、それ以外の者には閉ざされるのです。




 まず自分が理解出来る喩えから信じるとよいでしょう。




 キリストのなさった奇跡は行為における喩えで、彼が語られた喩えは言葉における奇跡であるとピアーズが言ったように、主の喩えを信じるものには、それが現実のものとなる奇跡を見ることが出来るのです。





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