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Q33、信じるならばキリスト教と思ってはいても、いざ「信じる」となると一歩ひいてしまいます。信じたいのにどこか信じきれない今の状態から、どうしたらぬけることが出来るでしょうか。(20代女性 、学生)


A33

◆「信頼」に値するか




 キリスト教が聖書を通して伝えてきたものが、信頼に値するかの判断が、その内容を正しく知ることなしになされることは、実に残念なことです。




 「信じる」とは「信頼する」ということです。ここで大切なことは、信頼する相手と信じる自分の態度です。信じる対象と信じる本人です。




 全く知らない人を信頼することは難しいことです。まず、相手を知ることが、信頼への大切なステップです。思い込みや偏見は、相手を正しく知ることを妨げます。




 このことは神(キリスト)にたいしても同じことです。




 次に、信じる「本人(私たち)」について考えましょう。「完全に知り納得がいくまで、信じない」という態度は、問題です。これは、神を人間の理性の枠内に押し込めることに外なりません。




 飛行機に乗るとき、あの鉄の固まりが空を飛ぶことが分かるまで乗らない、とすると、私など一生乗れないでしょう。




 自分の理解という枠内で生きる、と考えるとゾッとします。分からなくても、信頼するから乗るのです。信仰の決断は、これとよく似ています。






◆具体的な一歩




 私たちが救われて神の祝福の中を生きることの出来るのは性格や行いの善し悪しでなく、ただ信じることによるのです。




 「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」(ローマ10:10)。ですから、今のあなたに大切なことは、正しくキリストを知ること、信仰の決断、そして、どなたかに、信じたことを告白することです。




 しかし「信じる」というひとつのことも、経験のレベルでは十人十色です。また、信仰は罪に汚れた人間の本質と永遠の救いに係わる大切なことです。




 ぜひ、クリスチャンの友人か教会の牧師に相談されることをお薦めいたします。


Q34、最近なぜか友人からキリスト教の話しの入っているテープを借りて聞いたりしていますが、「とにかく信じることです」とか「理屈や説明ではなく信仰です」などと言われても、私にとっては抽象的で、雲をつかむような感じです。信じるとはどういうことですか?(30代、フリーター)


A34


 テープを聞き始めたとのこと、本当に嬉しく思います。きっといろいろ教えられる事も多いと思います。聖書からのメッセージは国境も文化も時代をも越えて、あなたの人生に語りかけてくるからです。






◆「そこが知りたい」のに・・・




 教会で語られる聖書の話は、たいてい限られた時間のなかで結論に持っていかなくてはならないので、どうしたら問題が解決するのかについての具体的な事々について省略してしまうことも少なからずあります。




 しかも、「これこれこうすることが今のあなたに必要です」などと具体的に話すと、差し障りがあったり、状況や事情に合う人と合わない人とが出てしまいます。




 ですから初心者にとって分かりづらくなり、「そこが知りたいのに・・・」と思わず心のなかでつぶやいてしまうのも多々あるでしょう。




 私もメッセージを伝える側に立つ時の悩みの種です。でも「仕方がない」といってあきらめずに質問されるあなたの姿勢こそ祝福への第一歩です。






◆「信じる」とは?




 では信じるとはいったいどういうことなのでしょうか。




 聖書にはこうあります「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉からくるのである」(ローマ10:17)。




 実は信じるという事の前にしなくてはならないことがあります。それは「聞く」ということです。信じるとは何かをすることではなく、神の前に聞こうとする姿勢から始まるのです。




 あなたがテープを聞いて、しかもこの質問を投げかけられていること自体のなかに、信仰は始まっているのです。




 ただ、いまのあなたに必要なのは、引用した聖書のみ言葉の後半の部分に示されているように、み言葉から何を聞くべきかということです。




 「聞くことはキリストの言葉からくる」(ローマ10:17)とあるように、大切なのは「キリストの言葉」を聞くことです。キリストが聖書の言葉を通してあなたに「語りかける」のです。




 ですから聖書を単に知恵の言葉や教訓として読み、「聖書にはなかなかいいことが書いてある」ということに留まるのではなく、「文字を読む」ことから「語りかけを聴く」ことへ進むことが大切です。




 聖書に「人は神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4)とあるように、目で文字を追うのではなく、神の口からの言葉を魂の耳がとらえることこそが、人が本当の意味で生きる為の忘れてはならない条件なのです。






◆どうしたら神の声が聞こえる?




 神の声が聞こえるなどと言うと、何か怪しいことのように感じるかも知れません。




 実際、「私は神の声を聞いた」と、まるで自分に特種能力があるかのごとく言うとき、それは怪しいものです。聞くことは能力の問題ではなく姿勢の問題です。




 車から降りて、路肩にそっと咲く一輪の花に身をかがめて初めてその香りがわかるように、一切を中断して、聖書の前に ひざまづき謙虚に静まる時初めてみ言葉が神の口から微かに、そして確かに聞こえてくるのです。




 信仰とは信じ込む努力でも能力でもありません。雲をつかむような議論で分かるものでもありません。具体的にみ言葉に耳を傾けることであり、語られたことに応答することなのです。




 山口博子さんがこのように唄っていました。




 目を閉じなければ見えない世界がある。


 口を閉じなければ、言えないことばがある。


 耳をふさがなければ、聞こえない声がある。


 歩み止めなければ、会えない人がいる。




Q35、宗教を信じている方々は、大抵その教理をもって説得しようとします。ところがクリスチャンと接していると、教理は弱いようですが、「神と出会った」といった自分の体験を話す人が多いようです。そのへんにキリスト教の特殊性があるのでしょうか。(30代 男性 大学院生)


A35


◆神経験の独自性はどこに?




 あなたのおっしゃる通り、クリスチャンは経験を重んじ、大切にします。それは、教理よりも個人的神との出会いの経験こそが、信仰の原動力だからです。




 教理は、その経験を整理するための二次的なものといえます。




 だからといって、その信仰経験にキリスト教の独自性を求めることは出来ません。むしろその経験をもたらして下さる神ご自身に求めるべきなのです。




 クリスチャンの信じる神は、天地万物を創造された唯一絶対なる神です。絶対とは対立を絶つということです。




 聖書にこのように宣言されています。「いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。わたしは神である。わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない」(イザヤ46:9)。




 どんな立派な宗教も、どんな偉大な宗教家であっても、創造者なる神と比べうるものはないのです。ここに独自性があります。






◆全人格的関係




 ではなぜ経験を重んじるのでしょうか。




 それは、信じる対象に関係があります。クリスチャンは、キリスト教という宗教を信じているのではなく、絶対者なる神を信じているのです。




 もし宗教を信じているのであれば、その概念化された教理、または象徴化された儀礼は信仰の中心的存在でしょう。「教え」を信じるのであれば、説得や納得は大切です。




 しかし、創造者である人格的神を信じるのであれば、人間の理性は、あまりに小さすぎます。




 たとえば、「結婚」は一人の伴侶との人格的な関係を基礎にしています(願わくは)。それは、数字や学歴などのデータ(情報)として、相手を知るのではなく、また日々の経験を基礎とし、過去も未来も共有するような全人格的関係をもって相手を知るのです。理性だけでは割り切れない関係なのです。




 人格的神との関係を理性に押し込めようとするのは、太平洋の水を小さな胃袋に入れようとするのと同じです。




 あなたを人格あるものとして造られた方は、人格的交わりを求めて聖書を通して語りかけているのです。




 それは、非人格的な教理や儀礼を超えた全人的経験の世界であり、頭のみならず、体も心も魂もすべてが関わることなのです。



Q36、教会でのメッセージの中で、感謝しなさいとか、喜ぶことですとか言われても、現実を見るとそれどころではありません。「喜べないような状況の中で辛いからこそ教会にきているのに」とすら思います。自分を偽ってまで感謝すべきなのでしょうか。(30代主婦)



A36


 感謝とか喜びというものは、「しなさい」と言われて出来るものではないでしょう。むしろ自然にわきあがってくるものだと思います。




 「作り笑い」は出来たとしても、「作り喜び」など出来るものではありません。感謝や喜びはきっと人間の深いところと関係しているからでしょう。






◆自分に正直になる




 自分を偽ってまで感謝することは難しいことであるばかりか、そのような無理をすることで、「クリスチャンらしくならねば」という律法主義的な信仰生活に陥ることも考えられます。




 ですから、自分を偽らず、感謝できないときには、「できません」と正直に祈ることをお勧めいたします。




 祈りの書ともいわれる詩篇を読むと、とうてい感謝などとは程遠い現実の叫び、恐れや不安、また憤りや復讐心が正直にまたあるときには露骨に表現されています。




 神の前では飾ることなく、自分に正直になることは、とても大切なことです。それは不信仰なのではなく、むしろ信仰への第一歩です。




 自分に正直になることと、自分の気持ちに捕われる事とは、似て非なるものです。捕われるとは、自分の恐れや不安、怒りや不満といったもので心が支配されてしまい、これらの気持ちに自分が振り回されてしまうことです。




 しかも、まわりの人まで振り回してしまうのです。そこには自由はなく、感謝や喜びなど入り込む余地すらないほどです。




 自分に正直になることのひとつの方法は、それを自分の中に閉じ込めておくのではなく出してしまうことです。つまり自分の気持ちを適切な相手にぶつけることなのです。




 問題は、私たちが相手を間違えてかえって事を悪くしてしまうことです。






◆誰に自分の気持ちをぶつける?




 一番手っ取り早いのは、近くにいる人です。自分の子供であったり、伴侶であったり。誰にもぶつけることが出来ず、胃潰瘍になる事もあるでしょう。




 それは結局自分にぶつけてしまったことになります。




 主イエスは、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われました。




 「わたしのもとに」すなわちまず何よりも主のもとに行くことです。言い換えるなら、何よりまず祈ることです。本気で神に訴えるのです。






◆祈りは現実からの逃避では?




 ここでいう祈りは現実から離れて祈りの世界に逃避することではなく、むしろ現実を神にぶつけることです。




 しかし「生身を持つ私たちは、具体的なこの地上の誰かにぶつけるまでは、おさまりがつかない」と思うなら、「この気持ちを誰にぶつければよいのですか?」と祈ってはいかがでしょうか。




 もし主が沈黙されるのなら、「主よ、夫に(妻に)ぶつけますからいいですね」と具体的に祈ってから行動することです。




 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(第一テサロニケ5:16〜18)。




 このみ言葉をよく読むと、喜びと感謝の真ん中に祈りがあります。




 このみ言葉は実現不可能なお題目ではなく、「苛立つ現実のただ中に祈りを持ち込むことによって必ずや喜びと感謝が生まれる」という約束でありチャレンジです。





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