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1月


新 年





新年明けましておめでとうございます。2015年が始まりました。




日本は自然が美しい国でありますが、災害の多い国とも言われています。昨年も2月の大雪、夏の豪雨による土砂災害、秋の火山噴火、そして冬には長野県山地に震度6弱の地震とありました。




これらはいつ、どこで起こるのか今は予想がつかない状態です。ですから日頃の防災が大事と言われています。




子どもの成長の中で大事なものに「予知能力」を身につけることがあります。これは哺乳類動物の中では人間しか持つことの出来ない能力です。いわゆる物事の先を読むことです。




棒を振り回して遊ぶと相手に怪我をさせる恐れがある。教室を駆け回って遊ぶと転ぶ危険がある等を知ることです。産まれたばかりの赤ちゃんにはまだありません。手に握るものは何でも口に運んでしまいます。




大人になってスピードを出して運転すると事故を起す危険性が高くなるのを知ることも予知能力のひとつです。最初は感情のままに行動する子ども達が段々と理性を働かせて行動するようになります。




運動会、マーチングバンド、クリスマス会を行って子ども達はどんどん成長しています。これらは集団で行っています。集団生活は社会性を養います。社会性、それは自分の行動が相手に対してどのような影響を与えるかを学ぶことです。




神様は私達にそれぞれの賜物を与えてくださいました。それがその人の人格を育みます。社会性とはみんなが同じようになることではありません。それぞれが自分の賜物を生かし、ハーモニーを奏でて集団を形成していくことと思います。




練習の先に、学びの先にこんな素晴らしいことが出来ると予知できるのが人間です。子供達には素晴らしい潜在能力があります。今年、私達は一年間で子どもたちがどれくらい能力が開花するか期待しましょう。




また、子ども達が成長できる「こひつじ園」となるよう職員一同、今年も努力して行きたいと思います。よろしくお願いします。



12月


クリスマス 愛の関係





今年も12月になりました。正月(1月)は心を新たにします。12月は一年の振り返り(反省)をする月でもあります。




1月と12月は一年で一番、間の離れている月ですが12月と1月は一番近い月でもあります。12月はクリスマス。1月は正月と、大きな行事のある2ヶ月間になります。




振り返るとき、特に気を使うのは人間関係です。人間は他者と関係を持って生きています。夫婦関係、親子関係、友達関係など等です。この一年あの人との関係はどうであったか、あるいは夫婦関係はと、私などは考えてしまいます。人間関係は大切にしていきたいです。




私達が生きる中で最も大切な関係は神様との関係です。なぜ神様との関係なのか。神は人格者の神様だからです。私達人間も人格者ですから神様と関係を結ぶことができます。




神様との関係は難しい関係です。しかし簡単な関係でもあります。それは神様が私達と関係を持ちたい思いを持っておられるからです。神様は私達との関係を奴隷のような関係でなく、愛の関係として持ちたいと願っておられます。




神様の本質を一言で言い表すなら「愛」(アガペー)です。この愛は私達に神から与えられている愛です。




聖書の中で最も有名な御言葉に「神はそのひとり子を与えられたほどに世(私たち)を愛された。」があります。




愛する人に一番大切なものをあげて自分の愛を理解してもらいたいと、私達は好きな人が出来たら考えます。夫婦関係に一番大事なのは「愛」の関係です。親子でも同じです。愛の関係が結ばれていることほど幸せなことはありません。




人間の深層心理には宗教心があります。本能的に人間には神を慕う心が存在しているのです。ただ神様の存在が漠然としてしまい日本人は狐でも狸でも何でも神様にしてしまいます。それらには人格がありません。




イエス・キリストの誕生は、神が私達を愛していることを示す神様の愛の出来事であります。神様が私たちと「愛の関係」を持ちたいと手を差し伸べているのがクリスマスの出来事です。




呼べば応えてくれるのが人格者です。神に祈り求めると神は応えてくださいます。祈りは神と関係を作る最も身近な手段です。




「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい。」これが神と関係を持つ生活です。

11月


イエス・キリストは道です。





10月号に神様は全てを「よし」として創られたと書きました。




特に人間は「極めて良かった。」と聖書に書かれています。しかし、現実の社会には多くの罪がはびこっている事実を私たちは知ります。




何故、神様に創られた人間は罪を犯すようになってしまったのでしょうか。エデンの園にその理由が書いてあります。




罪の始まりは誘惑です。誘惑は心に快楽の誘いを起こさせます。聖書は誘惑を人間にもたらしたのは「蛇」であると書いています。蛇が現実に生きている動物で一番賢い生き物とイエス・キリストは話しています。




私はこの夏、4匹の蛇と遭遇しました。蛇は音をたてずに動きます。獲物に近付くとき、知らないうちに獲物近くに進み、アッと言う間に獲物に絡みついてしまいます。




私たちが誘惑を受けるときも同じです。誘惑は知らない内に私たちの心に近づいてきます。誘惑は私たちにおいしさと楽しさの経験ができるとささやきます。決して悪くなるとは言いません。




誘惑は誰にでもあります。そして誘惑は欲望を起こさせます。アダムとエバは蛇の誘惑に従い神がしてはいけないと言われた事を犯してしまいました。聖書はこれを「罪」と言います。




罪の働きはアダムとエバに入りました。アダムとエバから生まれた最初の子どもカインとアベルの兄弟は兄弟喧嘩を始め、最終的には兄カインが、弟アベルを殺すようになってしまいました。そして人類はその罪を命の継承と共に今日まで引き継いでしまったのです。




罪の継承は今でも存在します。私たちの社会を見ると至る所で悲劇が起こっています。いけないと思いつつも誘惑に誘われているのが人間です。




しかし神は罪からの救いの道を開いてくださっています。その道を開いてくださったのがイエス・キリストです。イエス・キリストの誕生は罪からの救いを人類のもたらしてくださいました。それがクリスマスの真実です。




イエス・キリストの言葉です。「私が道であり、真理であり、命です。」これは罪からの救いの道が開けていることを語った言葉です。イエス・キリストの道に歩む時に罪から離れることが出来ます。(園長は水郷めぐみ教会の牧師でもあります。)

10月


神は良しとされた。





ミッションスクールである私たちこひつじ園の職員は、毎朝仕事が始まる前に職員室で聖書を読み、お祈りをしています。これは園創立から行っていることです。




今は「創世記」を読んでいます。創世記は聖書の一番前にあります。そして創世記の最初の言葉は「初めに神は天地を創造された。」です。




創世記には天地創造の経緯が書かれています。宇宙の誕生、人類の誕生には多くの科学者が心血を注いで研究しています。宇宙にロケットを飛ばし小惑星から微粒子を採取してまで研究が進められています。しかしまだ解明はされていません。




聖書はいかにして天地が作られたかを書いています。一週間が7日あるのは聖書に書かれているとおりです。しかし聖書は科学書ではありません。信仰の書です。信仰とは神と人間との関係の在り方を示すものです。天地創造も信仰の記述です。




まず神は最初に「光」を造られたと書いてあります。そして空と陸、海とその中に住むものを7日間かけて創造の働きを進めました。神は一日の創造を終えた時「神はこれを見て、良しとされた。」と最後に書かれています。




聖書は全てが神によって造られたと書かれています。そして神が造られたものは「全てが良い」とあります。世界の始まりは「全てが良い」ところから始まりました。




私たちこひつじ園の職員が園児を見る目線は、良いところを見ることから始まります。子供達の成長は早いです。成長の段階で色々なことを見たり、学んだりして大きくなっていきます。




10年前に卒園して行った卒園生たちが先月、園に来ました(潮来第一中:三年生80名)。その中に、彼がいました。身長は170センチ(私は167センチ)。逞しい青年になっていました。しかしその顔の中に園児時代の素直さがありました。




神様は全ての人間を良いものに造られました。一人一人の中にあるその良いものを見て育てるのがこひつじ園の方針です。創世記1章の最後に「神はお造りになった全てのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と書かれています。




こひつじ園の子どもたちは全て神様に作られた良い子どもたちです。

9月


孫たちとお風呂に





長かった夏休みも終わり潮来の小学生たちは新しい学期が始まりました。生徒たちは楽しい夏休みの思い出を沢山胸に秘めて登校することでしょう。




私もこの夏楽しい出来事がありました。今、私にはすぐ近くに小学生が二人(4年生、1年生)こひつじ園に2人(ゆり組、ひよこ組)。そして来年度入園予定している2歳の子と孫が5人います。




みんな日曜日には教会に来ますから毎週5人の孫と顔を合わせています。一人一人の姿を見ていると楽しいです。でも5人を一度に相手するにはシンドイ時もあります。




この孫たちに私が一番したいことがありました。それは一緒に風呂に入ることです。自分の子どもが小さい時は風呂に入れる担当は私でした。汗をかきながら子どもと一緒に風呂に入りました。




しかし孫と入るのは違った楽しみがあると思っています。今までなかなか機会がありませんでしたが今年のお盆に我が家に来た孫たちに「おじいちゃんと一緒に風呂に入るか。」と聞くと以外にも「いいよ。」と3人の孫たちが返事しました。




気が変わらないうちにとすぐ風呂にお湯をため4人で一緒に入りました。4年生は自分で身体を洗うことが出来ます。自分で身体を拭いています。1年生の女の子はシャワーを使って髪の毛を洗い始めました。そんな姿を見るのが初めてでしたので感心しました。




さすが3歳の子は私が洗わないと何もできません。あっと言う間の出来事でしたが私にとって何よりも楽しい時でした。




今は多くの家庭が核家族になり一軒家に住んでいるのはおじいちゃんおばあちゃん。若夫婦は別に住み3世代一緒の家庭は少なくなっています。祖父母とお風呂に入ることも少なくなっています。




9月には「敬老の日」が祭日として決められています。私は祖父として孫と一緒に風呂に入ることが何よりのプレゼントかなと思います。

8月


いつまでも





6月の初めに私と和子先生はアメリカに行きました。アメリカの教会から「礼拝の説教に来てください。」との依頼がありました。ニューヨークまで13時間のフライト。エコノミクラスで耐えられるかと心配しましたがどうにか耐えることが出来ました。




アメリカの教会は日本人教会ですから日本語での説教です。黒人の教会も訪ねました。




7月は「こひつじ祭り」。梅雨明け前で天気が心配でしたが祭り開催中、雨も降らず出来ました。今年も沢山の方々に来ていただきました。




保護者以外の身内の方にも会えることが出来よかったです。皆さんとの交流の場にもなりました。園庭が狭く感じました。保護者の皆さまの協力を感謝します。「園長特別賞」1番最初に番号を引いた人が1等賞を当てたのには驚きました。




24日は潮来市から依頼されて市役所前でマーチング演奏をしました。年長さんの堂々とした姿に多くの人が感動しました。




7月28日(月)~30日(水)は、二泊三日で卒園生の「バイブルキャンプ」がありました。これは教会とタイアップして38年前に始めたものです。38年前の私は活力にあふれ一晩寝なくても活動が出来ました。




今はキャンプ始める前から体力が持つか心配してキャンプに臨んでいる状態です。しかし卒園生の大きくなった姿に触れ(小学生が対象です。)元気をもらい、どうにか連泊も守られました。




こひつじ園の特徴の一つに「バイブルキャンプ」があります。ゼロ歳で園に来たお子さんが小学生になり6年生までキャンプに参加すると12年間の付き合いになります。保護者の方とも同じです。




私は園で関係を持った園児が卒園したらおしまいでなく、長く関係を続けられることに喜びを感じています。今年の小学生参加者は47名でした。その中にはお母さんが卒園生で小学生の時キャンプに参加した子どももいました。




今年上半期の活動を振り返ると神様の御守りを感じます。こひつじ園がこれからも地域社会の中で存在をして行くには皆さんとの関係が大切です。そしてこの地域においてこれからも子育ての面でお役に立てる存在となっていきたいです。




聖書の御言葉「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(イエス・キリスト)



7月


子どもの価値





私は今年で保育園の仕事を始めて37年目になります。潮来市内では一番長く保育の仕事に携わる園長です。


37年前は右も左もわからないままに試行錯誤をしながら今日まで来ました。そして今は5人の孫のおじいちゃんです。




みんな近くに住んでいますから日曜日、教会に集まってきます。こっちの孫からあっちの孫から「じいちゃん!」「じいじ!」と呼ばれるとどこに顔を向けていいかわからなくなってしまうこともあります。でも、子どもは文句なしに可愛いです。存在そのものが愛おしくなります。




これは37年前も今も同じです。赤ちゃんに声かけると笑顔で応えてくれます。この交流はとても大事と思います。




人間は関係によって育つと言われています。赤ちゃんに声をかけると喜んでいるのは、本能的にこの人は自分に気持ちを向けていてくれている。自分に関心を持っていてくれていると感じるからです。これは赤ちゃんだけでなく人間、大人になっても同じことです。




しかし、子どもが成長するに従って私たちは子どもの存在よりも子どもが出来ることに目を向けてしまうように変わってしまいます。そして出来ることを他の人と比べてしまいます。あるいは自分の思い通りに反応する子に関心を持つようになります。




今までは無条件で自分に関心を向けてくれた大人に変化が生まれます。そして子どもは大人に関心を向けてもらいたくなり色々なことをするようになります。ここに大きな過ちがあります。




私たち人間は誰でも自分のありのままの姿で受け入れてもらったと感じるときに喜びと安心感が生まれます。そしてそこに自分の心地よい居場所を見つけます。




夫婦の間でも関心が薄れると夫婦間関係が冷えてきます。奥さんがヘアースタイルを変えたにもかかわらず旦那さんが気づかないことから離婚になってしまった話を聞いたことがあります。




人間お互い関心を向けて欲しい本能があります。特に就学前には一方的な関わりが求められます。




「あなたは私の目に高価で尊い。」これは神様が私たちに語っている聖書の言葉です。神様の目にはどんな人間でも尊く映るのです。




自分の子どもを見る目はどんな目をしているでしょうか。私の子で良かった。あなたが生まれてきてくれて嬉しいという気持ちはいつまでも忘れないでいたいものです。

6月


ひとりの人間として





6月は一年で一番好きな季節です。




6年前、旧園舎から移植した藤の木も大きく育ち、涼しい日陰を作っています。新しく植えたケヤキの木も今年は緑を濃くしています。




田んぼに植え終った苗は日々緑を増し成長しています。潮来のあやめ園でもあやめが咲き始めました。昼の時間も長くなりました。こんな中で園児たちと毎日過ごせることは幸せです。




先日読んだ文章の中に「子どもという子どもはいない、子どもという人間がいる。」という言葉を見ました。私たちはつい「子ども」という言葉で見てしまいます。そこには一人の人間の存在を忘れ上から目線で見てしまうこともあります。「まだ子どもだから」が心のどこかにあるとしたら心配です。




こひつじ園の園児はみんな人格を持った人間です。私はひとりの人間として接するよう心がけています。私たちと対等の立場として受け止めています。園児たちとは表現が違うだけでみんなひとりの人間です。




私たちが一方的に教えるだけでありません。彼らから教えられることも沢山あります。園児たちは日々成長しています。毎日のやり取りが園児の成長に大きく影響します。




幼児、学童、青年、大人と成長していきます。しかし本質は人間です。これを忘れるといつも怒るようになります。それは上から目線の姿です。それではこちらの言葉が伝わりません。




彼らには私たちの語る思いを受け止めることが出来る人間としての能力があります。ですから相手を人間という思いを持って話すことは大切です。




来年度から「子ども子育て支援新制度」がスタートします。目的は「保育の質と量」の向上です。待機児童は一部の都市です。日本のほとんどは人口減少です。ですから私たちの目指す新制度はまず保育の「質」を高めることです。




園児たちと対等の目線で接するところから保育と教育の質の向上は始まります。イエス様の周囲にはいつも大人と一緒の子どもたちがいました。イエス様は子どもの目線にあわせて、ひとりの人間として子どもを祝福しています。ですから子どもの思いをきちんと受け止められていました。




そんなイエス様を子どもたちは好きになっていたのです。



5月


新しい命





4月は色々ときれいな花が咲きました。園では梅、桜、藤の花と。そして5月も花は咲きます。園舎を囲んでいるサツキも咲きます。




寒い冬、木々は葉を落とし枯れてしまったのではと思うような状態でした。暖かさが増しそして日の時間も長くなるようになると木々にはきれいな新芽が生え大きく育っています。まさに春は命の始まりとも言えます。




この時期に教会でイエス様の復活を記念する意味もこの辺にあると思います。




聖書の言葉によるとイエス・キリストは時の権力者の嫉妬により十字架にかけられたとあります。裁判が行われました。尋問が始まりました。しかしいくら取り調べてもどこにも罪は見いだせませんでした。にもかかわらずイエス・キリストは死刑の判決を下され当時最も厳しいと言われていた磔にされました。




人々は「おまえは神の子だろう。そこから下りてみな、そうしたら信じてやる。」等と侮辱的な言葉を投げかけました。(この辺は「パッション」という映画に詳しく描写されています。)




両脇には強盗殺人を犯した罪人が一緒に磔にされました。しかしイエス・キリストは自分を弁護する言葉を一切言わず却って自分を十字架刑にした人々のために「父よ、彼らを許してください。」と、取りなしの祈りをしました。




十字架で息を引き取られたイエス・キリストは遺体を布でまかれて岩をくりぬいた墓に納められました。しかし三日目の朝マリアたち女性が墓に行ってみると墓は空っぽでした。




そして天使が告げたのです。「十字架にかかられたあのお方はよみがえってここにはおられない。」イエス・キリストの復活の瞬間です。物理的な制限のある肉的な復活でなく栄光の身体に新しい命に復活したのです。




神は「死」の絶望の世界の先に輝く復活の世界を作ってくださいました。それを神はイエス・キリストを通して示されたのです。その恵みは誰にでも与えられます。




「求めなさい、そうすれば与えられます。」は聖書の言葉です。イエス・キリストは求めるものに新しい希望を与えてくださいます。




私は新しい命の芽吹いている春が一番好きな季節です。



4月


新年度





梅の花が終り、桜の花が咲いています。今年は例年になく寒い冬であったと寒がりの私は個人的に感じています。




しかし4月、太陽の明かりも暖かさを増し昼の長さも伸び命の芽生えの力を感じられるようになりました。園児たちは寒くても暑くても毎日元気いっぱいです。




そして新年度が始まりました。クラス変えがあり、それぞれ大きなクラスに移動しました。初めは慣れないこともあるようですが子どもたちの適応能力は素晴らしくすぐに慣れてしまいます。そして新しいお友達も入園してきます。




この時期の成長は人間としての基本的なことを身につける大事な時期です。




途絶えることのない幼児虐待事件を見ると自分が子どもの頃親から愛された経験がないからどう子どもを扱っていいかわからないと話す大人が多いです。




だいぶ前に「何はなくとも江戸むらさき」という食品のコマーシャルがありました。「何はなくとも親の愛情」と言い換えるときがあります。




この時期の子どもにとって大切なことは親からの愛です。聖書には「愛」の定義が具体的にわかりやすく15カ条書かれています。




「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 」(コリントの信徒の手紙第一13章)。




私たちは愛の大事さはよくよくわかっていますが、ではどうすればいいのか。なんでも欲しいものを買い与えることか。遊園地に連れて行って一緒に遊ぶことか。愛が大事だけに難しいことです。




聖書の言葉は二千年前に書かれた言葉です。それが今でも受け継がれています。間違いのないことを歴史が証明しています「神は愛なり」と聖書は神様の事を定義しています。




イエスキリストの十字架はその現れです。こひつじ園は聖書を土台としています。それはお預かりしているお子さんを愛を持って保育と教育をすることです。




こひつじ園職員一同、聖書の愛を土台として子どもたちと過ごし一年間の素晴らしい成長を期待しています。子供達一人一人に神様の祝福をお祈りしています。

※スライドショーの1人単位の園児写真は保護者の了承を頂いての掲載です

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